【 キャンドルの火 】
◆m40VnvCr0Y
※投稿締切時間外により投票選考外です。




109 名前: ◆m40VnvCr0Y 投稿日:2007/01/14(日) 23:39:38.00 ID:O+2lWbK20
 マンションの一室のドアの前、俺は深く息をついてから腕時計に目をやった。どうやらおやつの時間だ。あと十二時間経ったらだが。
 背後には月が昇り、俺の背中を照らしている。冬の澄んだ空気のおかげで、今夜はひときわくっきりと月が見える。
深夜の帰宅。そりゃあ仕事をしている人間なんだから、会社で徹夜して朝帰り、何てこともよくある。彼女もそのあたり、理解してくれているはずだ。
 はずなのだが、俺の頬を冷や汗が流れる。つまり後ろめたいことがあって、彼女にあわす顔がないということだ。
 一時の気の迷い。そう、あの女性とはこれっきりだ。ただ同じチームでいつも仲良くしているから、ちょっと変な気分になってしまっただけで、そう、仕方がないことだったんだ。
 男だからな、俺。不倫は文化だ、なんて素敵な言葉もある。いや、結婚はしてないから不倫じゃなくて浮気? というか、うーん、俺は彼女と結婚するのだろうか。
 まあ、そんなことはどうでもいい。今はとにかく寒い。早く部屋に入って、ヒーターで温まりながらカップラーメンでも啜ろう。
 かじかむ手にぬくい息を吐きかけて、鍵をあける。が、開かない。不信に思いもう一度鍵を回すと、開いた。どうやら、はじめから開いていたらしい。
 無用心だな。泥棒にでも入られたらどうするんだよ。朝にでも注意しておくかと思いつつ、玄関に上る。後ろ手にドアを閉め、鍵をかける。
 靴を脱ぎながら、ふと思う。もしかしたらまだ起きていて、俺の帰りを待っているのかもしれない。ありうる。よく気の回る彼女なら、待っていてくれているかもしれない。
 出来れば寝ていて欲しい。もし起きていて、優しくお疲れ様だなんて言われたら、罪悪感で死んでしまいそうだ。
 罪悪感、ねえ。進んで彼女を裏切るようなことを率先しておいて、罪悪感なんていまさらだ。はん、と自分を嘲る。まったく、酔っているのかもしれないな。いや、酒でなく。
 ネクタイを緩めながら、リビングに入る。さて、カップラーメンなに食おうか。もしかしたら彼女が何か用意しておいてくれているかもしれない。
 彼女の料理は、自慢じゃないが美味い。少し期待しながら、電気をつける。……つかない。ブレーカーが落ちているのだろうか?
 そういえば、リビングはまだ暖かかった。彼女がエアコンをつけっぱなしにして寝てしまったのかもしれないな。
 やれやれ、と踵を返す。今日はなんだか、彼女らしくないずぼらなミスが多い。なにかあったのだろうか? 
 そんなことを考えていると、不意に背後で物音がした。摩擦音、その直後に着火音。驚いて振り返ると、彼女がマッチを片手に椅子に腰を降ろしていた。
 彼女はマッチを持った手を伸ばすと、テーブルにおいてあったキャンドルに迷いなく火をつけた。柔らかなキャンドルの光が、彼女の顔を薄く浮かび上がらせる。
「きれいね。以前気に入って買ったものなの。……どうかしら?」
「き、キレイだね」
 思いがけず声が裏返ってしまった。彼女は腰の引けている俺に顔を向けると、目を少し細めて微笑んだ。よかったら座って、と声が続く。

110 名前:2−5 投稿日:2007/01/14(日) 23:40:40.40 ID:O+2lWbK20
 彼女と対面する形で、俺は椅子に腰をおろした。彼女はキャンドルの火に視線を固定していた。キャンドルから、かすかに甘い香りが漂ってくる。
 沈黙が続く。彼女が口を開こうとしないので、俺はなにも話を切り出せないでいた。なんで起きてたの? とか、飯ある? だなんて口に出せない空気が、その場を支配していた。
 彼女は感づいているのだろうか? 俺が後ろめたいことをして、こんな遅くに帰ってきたのだと? 勘ぐっていると、彼女が俺の顔を見ていることに気がついた。慌てて目を逸らしてしまう。
 「ねえ、火を見て。じっ、と。……気が落ち着いてこないかしら。わたし、色々と考え事があるときや、悩みがあるときに、よくこうして火を眺めるの」
「そ、そう……なんだ。いいよね、うん。俺もこういうの好きだよ」
「……」
 なんか考え事や悩み事があるんスか、と思わず顔が引きつる。彼女は依然として、キャンドルの頭頂にともる火を凝視していた。
 鋭角的な輪郭に、切れ長の瞳を持つ彼女には、無表情がよく似合った。長い黒髪がその表情に影を与え、より落ち着いた雰囲気を彼女に発散させている。俺は、彼女のそう言うところが好きだった。
 次第に、波立っていた心が落ち着きを取り戻していく。心地よい沈黙、というものは、彼女と知り合ってから知った。テーブルに二人、顔をつき合わせて黙り続ける。
 手持ち無沙汰なので、言う通り彼女から火に視線を落とす。小指の第一間接ほどの火が、ふわふわと踊っている。吸い込まれるような、不思議な感覚があった。
「……はじてあったときのこと、覚えているかしら」
 しじまを破ったのは彼女の方だった。覚えてるよ、と顔を上げると、あなたは火を見ていて、と返される。逆らう気にはなれず、再び火に目を向ける。
「少しだけ長い話を聞いて欲しいの。……いいかしら」
 首を縦に振って答える。ありがとう、と言う彼女の声は涼やかで、俺は好きだった。少しだけ間をおいて、彼女が再び口を開いた。
 
 わたしとあなたがはじめて会ったのは、高校の図書館。二年生の時に同じクラスになって、そのとき初めてわたしと会ったとあなたは思っているだろうけど、それは違うの。
 一年生で、夏休みだった。わたしは宿題を済ませようと思って、図書館に来ていたわ。あそこは空調が効いていて、涼しかったから。三日くらい通って、四日目にあなたはいたわ。
 大勢の友達と、あなたは楽しそうに笑っていたわ。でも、図書館は静かにするところよ。わたしは迷惑だな、と思ってあなたたちを見ていた。早く帰ってくれないかなって。
 でも、あなたたちはいつまでも笑っていて、わたしはずっと苛々してた。その日は途中で帰ったわ。もうしばらくは来るのを止めよう、って思った。次に行ったのは、五日後のこと。
 でも、あなたたちはまだいたわ。入ってすぐ、わたしは帰ろうと思った。でも、そうやって踵を返したら、あなたが腕を掴んできた。静かにするからさ。この前はごめんな、って。
 あなたは覚えてないと思うわ。たった数秒のことだったから。その後、しばらくしてあなたたちは帰った。静かにするって言ってもうるさかったから、わたしはほっとしたわ。

111 名前:3−5 投稿日:2007/01/14(日) 23:41:23.78 ID:O+2lWbK20
 わたし、人の笑い声が嫌いだったの。笑い声は、凄くうるさくて、癇に障る声だった。学校は、笑い声が満ちる空間だったから、凄く行くのが嫌だったことを覚えているわ。
 でも、なんでだろう、って思った。なんでこんなに笑い声が嫌いなんだろう、ってそのときふと思ったわ。あなたたちがいない図書室は静かだったけど、何故かそのときは、寂しさに似たものを感じたから。
 次の日、わたしは学校へは行かなかった。その後もずっと。学校が始まるまで、図書館へは行かなかった。ずっと部屋の中で、一人でいたわ。
 寂しいが、怖かった。わたしは、あのときまで寂しいという感情をもったことがなかった。一人でいても平気だった。友達もいなかった。平気だったから。
 
 彼女の口上が、ふと止まる。どうしたんだろうかと思い顔を上げると、火を見ていて、と言われる。一瞬見た彼女の表情は、思いつめたような感情が見て取れた。
 しばらくして、再び彼女が口を開いた。キャンドルの火が、少し揺れる。
  
 笑い声というものをはじめて意識したのは、あの図書館が初めてだった。普段は、ただの雑音でしかなかったけれど、図書館は静かで、笑い声を持ち込む場ではないから。
 胸が苦しかった。意味がわからなくて、なんでこんなにも苦しいんだろうって。笑い声が頭の中でループしてた。楽しそうな声。ずっと。
 二学期が始まって、気付いたの。ああ、寂しさっていうのは、虚しさなんだなって。教室にいて、わたしは一人だったから。楽しそうな人たちの、蚊帳の外。
 わたしは図書館が好きだった。静かで、冷たい場所だったから。笑い声の届かない、場所だったから。でも、今思うと、ただ逃げていただけ。
 二年生になるまで、あなたが話し掛けてくるまで、わたしは凄く怖かった。わたしはひとりが平気だと思っていた。でも、寂しさに気付いて、怖くなった。一人は、怖いの。
 あなたはわたしのこと、忘れていたと思う。あのとき笑っていて、わたしを引き止めて、わたしに寂しさを教えてくれた人。わたしは覚えていたけれど、あなたは忘れていた。
 でも、あなたはわたしに話し掛けてくれた。わたしに笑いかけてくれた。わたしは嬉しかった。気付いたらわたしも笑っていて、ぎこちなかったけど、笑えていた。
 凄く嬉しかった。寂しくないが、凄く暖かいものだって知った。あなたにとっては、ただ仲間はずれのわたしを気遣っただけなのかも知れないけれど、わたしは嬉しかった。
 ずっと一緒にいて欲しいって、思った。もう、一人は嫌だったから。どうしたら一緒にいてくれるんだろうって、ずっと考えてた。でも、わからなくて、凄く苦しかった。

112 名前:4−5 投稿日:2007/01/14(日) 23:43:08.48 ID:O+2lWbK20
 もし、あなたと一緒にいられなくなったら、わたしはまた図書館で一人なのかなって。図書館へは、あのとき以来行っていなかったから、懐かしくなって、わたしは行ったわ。
 夕日が差し込んでいて、凄くきれいだった。だれもいなくて。凄くきれいだったけれど、わたしは急に泣いてしまった。どうしてかわからなくて、ただ泣き続けた。
 そうしたら、あなたが来てくれた。借りた本を返すんだ、って。泣いてる私を見て、あなたは驚いたわ。今でも思い出せるの。慌てた顔を見るのは、初めてだったから。
 わたしはあなたに、そのとき初めてずっと一緒にいて欲しいと伝えたわ。胸が苦しくて、痛くて、涙で声にならなかったと思う。でも、あなたは優しく笑って、頷いてくれた。
 
 キャンドルの火の向こうに、ぼんやりと彼女の泣き顔が見える。俺の目は火に焦点をあわせることを放棄して、その泣き顔だけを頭に送り続けていた。
 切れ切れな涙声で、ずっと一緒にいてください、と言われたときは驚いた。人生で一番驚いた。お世辞にも女性にもてたとは言いがたい俺に、泣きながら告白してくる人がいるとは思わなかったから。
 彼女の口が言葉を紡ぐのを止める。再び、静かな空間が訪れた。俺も、胸が苦しい。

 それからは、ずっと幸せだった。孤独だった16年の幸せを全部足してもたりないくらい、わたしは幸せだった。あなたは優しくて、暖かかった。
 あなたと同じ大学へ行きたいと言ったら、あなたは一緒に頑張ろうって言ってくれた。鬱陶しく思われるかも知れないって。そう思ってたから、安心した。
 大学を卒業して、あなたは凄い企業に行って。わたしも頑張ったけど、無理だった。気にするなよって頭を撫でてくれた。泣きそうだったけど、我慢できた。
 すれ違いになんてなりたくなかったから、わたしは翻訳家の仕事を選んだ。いつか自分も小説を書きたいって言ったら、あなたは応援するよといってくれた。
 疲れて帰ってきても、あなたは笑いかけてくれた。わたしがわがままを言っても、あなたは嫌な顔一つせずに付き合ってくれた。あなたは、わたしにはもったいないいい人。
 凄く感謝してる。あなたがいなかったら、わたしはずっと図書館の中。人から目を背けて、ずっと一人。孤独を疑問にも思わなかった。そう思うと、怖くてたまらない。
 ……顔を上げて。

113 名前:キャンドルの火 5−5 投稿日:2007/01/14(日) 23:44:06.88 ID:O+2lWbK20
 彼女の顔は、泣きそうに歪んでいた。もしかしたら、このキャンドルは表情を見られたくなかったからなのかもしれない。
 彼女がこれまで、こんなにも饒舌になったところを、俺は見たことがない。目にたまった涙が、小さな炎に照らされて輝いていた。
 感極まってしまったのだろうか。心なしかしびれたようになっている頭で、ぼんやりと考える。彼女のきれいに切りそろえられた髪が、ふわりと揺れる。
「……聞いて欲しい、ことがあるの。嫌なら、断って……」
 消え入りそうな声。思いつめた時に出す、彼女の声だった。胸が締め付けられるように痛む。
「これからも、ずっと一緒にいてくれますか……?」
 彼女の言葉が、頭の中に響く。ずっと一緒に。彼女の真摯な言葉。真正面から、なにも飾ることなく、俺を求める声。
 不意に気付く。頬が濡れている。俺の頬。手をやると、涙だとわかった。おれは泣いていた。
 なにをやっているんだ、俺は。彼女は真剣で、心から俺を愛してくれている。それこそ代わりなんかいない、俺だけに対して愛を求めている。
 それが俺はなんだ? かっこうつけて、少しおだてられていい気になって、簡単に彼女を裏切っている。悪びれもせず、ばれなければいいなどと考えた。
 最低だ、俺は。死んだほうがいい。彼女に失礼だ。俺なんか、愛される価値がない。
 こんなにも、彼女が俺のことを想っていてくれたなんて。知らなかった。ただ、居心地がいいから一緒にいた。彼女のこと、全てを理解しようとも考えなかった。
 彼女は打ち明けてくれた。選ばれる前に、全てを俺に吐露してくれた。彼女は俺を欲しがってくれている。心から。
「……こんな、こんな俺でいいんなら、死ぬまで一緒にいてやる。……ありがとう、ごめんな」
 俺は泣いていた。ボロボロ泣いていた。こんなに泣いたのは、生まれて初めてのことだ。嬉しくて、泣いた。
「あり……がとう……」
 気付くと、彼女も泣いていた。張り詰めたものが切れたように、留める術もなく涙が流れ出ている。いたたまれなくなって、俺は椅子から腰をあげた。
 彼女を抱きしめる。細い彼女は、俺の胸に納まった。胸に顔を埋めて泣く彼女に、俺は一生をささげようと思った。偽りなく、心から。
 涙で目が見えない。こぼれる雫が、彼女の背中に落ちる。キャンドルの火が、小さく揺れる。
 俺は、彼女が密かに笑んでいるのに、気がつくことはなかった。



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