【 ふわりと風船ひとつ 】
◆WGnaka/o0o




54 名前: ◆WGnaka/o0o :2006/04/17(月) 04:29:06.19 ID:byST1JIM0
品評会お題:旅 / 「ふわりと風船ひとつ」


 いったいどれくらい歩いたのだろうか。肩に担いだボストンバックの重みが手提げ紐を伝わって響く。
 遥か遠くまで続きそうな町並木通りの先を見つめながら、溜め息混じりに汗ばんだ前髪を掻きあげた。
 俺はどうしてこんな田舎町に来てしまったのだろう。
 あても無く電車を乗り継ぎ着いた終着駅を降り、もっと大きなプラットホームを目指していたはずだ。
 どことも判らない町においては無謀とも言える。
 だがしかし、こういうものこそ旅の醍醐味というやつだと思う。
 そもそもなぜ俺はこんな旅をしているのか。もはやそれさえ曖昧になってきていた。
 たかが大学の夏休み期間を利用しての思い付き。そんなものあるはずも無い。
 もしあるとするならば、それは自由への憧れとも言うべきものか。
 明確な目的があったら、恐らくそんなものは旅と言えるものではないのかもしれない。
 だから俺のしていることは旅だ。確信はないが。
 そんなことを思いながら歩くスピードを緩め立ち止まった。
 あまり舗装されていない遊歩道に沿って、青々と葉を付けた銀杏の木が点々と植えられている。
 ずっとこの景色を歩きながら見続けていた。振り返っても同じような風景。いい加減飽きもしてくる。
 アブラ蝉の鳴き声だけが、この変わり映えのしない空間を支配していた。
 鬱陶しいとさえ思える世界から逃げようと、銀杏の木の向こうに広がる青空を見上げる。
 歩き疲れて倒れそうな俺の体を鞭打つように、彼方で煌々と照り付ける太陽の光が降り注いでいた。
 なんだか更に暑さが増した気がして、俺はもう一度溜め息を吐いて視線を戻す。
 そこはまだ変わらない並木通りだと思っていた。閑散とした世界が広がっているだけだと思っていた。
 しかし、唐突に視界に入ってきたのは人影たちで、俺は思わず三回ほど瞬きをしてしまう。
 いつから居たのだろうか。今まで気付かなかった。
 重いボストンバッグを担ぎ直し、俺は歩き出してその人影に近付いて行く。五本先に見える銀杏の木の先へ。
 浴衣姿の子供が男女二人に、何かを話しかけている黄色いワンピース姿の少女がそこに居た。
 四本目の銀杏の木を通り過ぎた頃、三人は困ったように銀杏の木を揃って見上げる。
 俺も歩きながらその子たち視界の先を追うと、枝に引っ掛かっている赤い風船を見つけた。
 風船の縛り口に付けられたタコ糸が、辛うじて飛ばされそうなその体を繋ぎ止めている状態だ。
 少でも風が吹けば飛んで行ってしまうだろう。

55 名前: ◆WGnaka/o0o :2006/04/17(月) 04:30:18.39 ID:byST1JIM0
「どうしよう、お兄ちゃん」
「うー、オレ高いとこ苦手だし……」
「ごめんね、ちょっと私でもあの高さじゃ無理かな」
 あの風船は子供のものか。次第にハッキリと聞こえてきた会話で理解する。
 ワンピースを着た少女は困ったように苦笑いを浮かべているだけだった。
 俺は三人の元まで辿り着くと、腰までありそうな後ろ髪を持つ少女に話し掛ける。
 遠目からでは良く判らなかったが、目の前の少女はなかなか可愛い顔をしていた。
「困っているみたいだな」
「あ、そうなんですよ。もう白旗を振りたい気分なくらい困っちゃってます」
 少女は苦笑いをしながら少女は白旗を振るジェスチャーを手の平でしていた。
「でも降参はしません。諦めたらそこで試合終了ですよって白い人が言ってました」
 そう言うなり今度は一変して柔らかい笑顔を見せた。それにつられて俺も思わず頬が緩んだ。
 まるで初対面ということを忘れそうになるくらいの人懐っこさが垣間見える。
「ははっ、それ漫画の話じゃないか。助けが必要なら手伝うよ」
「おじさん頼む。オレが買ってあげたもんなんだ」
 誰よりも早く男の子が俺を見つめながら告げたあと、隣で泣きそうな女の子を見やった。
 なるほど、妹に買い与えた風船が飛ばされてしまったという訳か。
「私からも是非お願いします。おじさんの力を貸してください」
 律儀にお辞儀をする少女。長い黒髪がふわりと揺れ、香水のような良い匂いがほのかに鼻をくすぐった。
「そこまで言われちゃうとしょうがねぇか。でも俺、まだ二十歳なんだけどな……」
「え? あ、ごめんなさいっ……私ってば、つい――」
 またお辞儀をされそうな勢いなので、俺は手で制すように突き出しながら言葉を遮った。
「いいっていいって、老け顔なのは事実だしさ。それより、飛ばされそうなアレ取ってくるよ」
 自分で言ってて情けなる。
「すいません、宜しくお願いします」
 結局またお辞儀をする少女の姿を苦笑いで尻目にし、担いでいたボストンバッグを地面に落とす。
 凝った肩をほぐすように腕をぐるぐる回してから、枝に引っ掛かっている風船を見上げた。
 手を伸ばしたくらいでは届きそうにもない位置にある。
 生憎手元には棒切れなんてものは無く、直接木をよじ登って取るしか方法は無さそうだ。

56 名前: ◆WGnaka/o0o :2006/04/17(月) 04:31:15.80 ID:byST1JIM0
 汗で濡れたTシャツの袖を無理矢理まくって気合を入れる。
 期待に満ちた三人の澄んだ瞳が、無言のプレッシャーを与えてくれた。
 俺はそれほど太くない幹に腕を回して力を込める。木登りなら子供の頃に良くしていたから楽勝だ。
 地を蹴って距離を稼いだら、あとは力技で重力に逆らうだけ。
 子供の頃とは比べ物にならない力で簡単に登っていく。
 枝分かれしているところまで辿り着くと、それを頼りしながら更に登る。赤い風船はもう目の前。
 タコ糸に向かって手を伸ばした瞬間、世界は驚くスピードでひっくり返った。



 色とりどりの提灯が闇を照らし、祭囃子の音色が活気を際立たせる。
 毎年この時期になると大きな神社の境内で執り行われる夏祭り。
 俺は懐かしい雰囲気の中、連なる出店と行き交う人々に囲まれながら一人佇んでいた。
 そんな俺の目の前を一人の子供が駆け足で通り過ぎる。
 手には出店で買ったであろう、一昔前に流行ったキャラクターがプリントされた風船。
 どこか見たことのある男の子の面影。走り去っていく後ろ姿を目で追うと、女の子が視界に入った。
 風船を持って駆けつけた男の子よりも年下に見える。
 俺はそのとき不意に気付いた。いや、気付いてしまった。
 あの威勢の良い男の子は昔の俺だ。そして泣き笑いを浮かべた橙色の浴衣を着込んだ女の子は妹。
 間違いない。まだ幼かった頃の俺たちが、今の俺の目の前で笑い合っている。
 忘れていた記憶がこの場所に蘇っていた。
 祭囃子の音色も神社も出店も浴衣の色も風船も、全部あの日に訪れた夏祭りと同じ光景だ。
 同じならばこのあと起こる出来事も判る。俺はその子たちに向かい走り出す。
 もう後悔なんてしたくない。あの日に消えてしまったものは取り戻せないと知っていたから。

57 名前: ◆WGnaka/o0o :2006/04/17(月) 04:31:52.15 ID:byST1JIM0
 男の子は女の子に風船を手渡そうと差し出す。
 ――やめてくれ。
 女の子は涙を拭い、嬉しそうにそれを受け取ろうと手を伸ばす。
 ――見せないでくれ。
 出店の暖簾が吹き付けた風で揺らめいた。
 ――待ってくれ。
 男の子の手から、風船が風にさらわれた。
 ――こんな想いはもうたくさんだ!
 俺は舞い上がり始めた風船の紐へと手を伸ばす。
 掴んだと思った。確かに俺の手は紐を掴んだはずだった。
 紐は俺の手をするりと抜け、ヘリウムガスの詰まった風船はあの日と同じように夜空へゆっくりと飛んだ。
 握ったまま下ろした俺の手は半透明になっていて、その先には空を見上げる女の子の顔があった。
 過去は変えることが出来ないということなのだろうか。
 ――ちくしょう……ちくしょうチクショウちくしょぉおおお!
 無力な俺はその場でへたり込み、痛みすら感じない握り拳で何度も地面に打ち付けた。

 まだ幼い頃、妹に買ってあげた出店の風船。ガキの所持金なんて多寡が知れたものだった。
 共働きで忙しい両親の代わりに、どうしても行きたいという妹を夏祭りへ連れてきた。
 風船を売っている出店の前で妹はアレが欲しいと泣きせがんだ。
 あまり我侭を言わない妹には珍しく、無理という言葉にさえ断固として聞かなかった。
 妹の手を強引に引っ張ってその場を離れる。そうすれば諦めると思った。
 しかし、妹は泣き止まなかった。子供心ながら胸を痛めてしまう。
 本当なら型抜きで遊ぶために取っておいた最後の百円。
 嫌々と愚図る妹を見かね、兄という立場が背中を後押ししていた。
 妹を一人その場に残して走る。風船を売る出店へ引き返すために。
 そして、買ってきたばかりの風船は妹の手に渡ることなく旅立った。
 嬉しそうだった顔はそこにはもう無くて、涙を流すばかりの辛い思い出になってしまったことだろう。

58 名前: ◆WGnaka/o0o :2006/04/17(月) 04:32:40.99 ID:byST1JIM0
 夏祭りの翌日から、妹は床に就く時間が増えていった。病気を患っていたという。
 初めて両親から聞かされたとき、にわかには信じられなかった。
 昨日まで元気に後を付いて回っていたというのに。
 それから数日後、妹は病院に移され治療に専念することとなる。
 見舞いすら行けない距離。何も出来ない自分を悔やんだ。
 一年後、妹は帰らぬ人となってしまった。両親から明かされた事実に戸惑い泣いた。
 幾度となく両親に尋ねても、返ってくる言葉は機械的なものばかり。
 葬式をしたという記憶は無く、ただ悲しみに明け暮れていた日々しか思い出せない。
 そして、この住み慣れた町から逃げるように離れることとなった。
 もしあのとき、ちゃんと妹に風船を手渡せていたのなら。
 もしあのとき、泣いていた妹の悲しみを拭えたのなら。
 もしあのとき、病に倒れた妹の傍に居られたのなら。
 戻れない過去を振り返っても、現実は何も変わりはしなかった。
 風船が空へ飛んで行ってしまったように、俺の思い出もどこか遠くへ飛んで行ってしまったというのに。
 二年前に両親が交通事故で死んでしまったが、今でも妹が亡くなったなんて信じてはいなかった。


 うるさい蝉の鳴き声が暗闇の底から湧き上がり、襲いくる暑さは寝覚めの悪さを増幅させる。
 そんな悪夢から逃げるように目を開けると、ぼやけた少女の顔が目の前にあった。
「大丈夫ですか?」
 逆光でも判る少女の可憐なその顔は、心配そうな表情を作りながら俺の顔を覗き込んでいた。
 少しでも手を伸せば届きそうな距離に、俺はなんだか気恥ずかしくなって見詰め合っていた視線を逸らす。
「だ、大丈夫だから」
「良かったぁ。あの、立てますか?」
 しゃがみ込んでいた少女は中腰立ちになると、寝ている俺の前に右手を差し出した。
 掴まれということだろうか。
「ああ、ありがとう」
 少女の小さな手を借り、俺はよろめきながらも立ち上がる。背中が痛むが大したものでもなさそうだ。
 日差しとは違う温もりを感じて僅かに安堵した。
 誰かの温もりを直接感じることなんて、随分と久しぶりのように思う。

60 名前: ◆WGnaka/o0o :2006/04/17(月) 04:33:27.06 ID:byST1JIM0
「そういえばあの風船は?」
 握っていた手を離して問うと、少女は俯き表情を曇らせた。
「この大空へ旅立ってしまいました」
「……また、同じ過ちを犯してしまったか」
 先程の夢のことを思い出し、俺はそんなことを呟いてしまっていた。
「え?」
 俯いていた少女は顔を上げ、何か不思議そうにこちらを伺っていた。
「あ、いや、昔にも似たことあってさ。そんときも風船飛ばしちゃって」
「そうなんですか。一応、子供たちの帰り際に私から謝っておきましたから平気ですよ」
「そっか……あの子たちに悪いことしたかな。君にまで迷惑かけてごめん」
「いえ、私は全然気にしてないですから。それより貴方にもしものことがあったらって思ってて……」
 俺が倒れていた姿を思い出したのか、少女はぎゅっと握った手を胸に当てて唇を噛み締めていた。
 見ず知らずの俺にさえこんなにも親身にしてくれるこの少女は、きっと素直で心優しい子なのだろう。
 どことなく似た雰囲気を感じ、少しばかり妹のことを思い出してしまう。
 もしも生きていたのなら、この少女と同い年くらいだろうか。
 泣き出しそうな表情を見つめていると、胸の奥が針で刺されたように鋭く痛んだ。
 思わず向かい合った少女の頭に手を伸ばすが、そこで俺の手は止まってしまった。
 もう目の前の少女は屈託の無い笑顔だったから。
「それにしてもあの子供たち、すごく仲が良いんですよ。まるで昔の私と兄みたいに」
「君には兄さんが居るのか?」
「ええ、とっても優しくて強くて。大好きな兄が居ました」
 どこか遠くを眺めるように視線を上げ、吹いてきたそよ風に流されないように髪の毛を耳元で抑えた。
 語尾が過去形のことに疑問を抱いたとき、少女は目を閉じて更に言葉を続ける。
「まだ幼かったある日、私は病に倒れました。それから一年後くらいに、両親と兄は居なくなりました」
「居なくなった?」
「そうです。大きな病院に移されたときに私を残して忽然と……」
 病気……病院……居なくなった家族……。
 パズルのピースが一つ一つ嵌っていくような、そんな不思議な気持ちが湧き上がってくる。
 なぜだろうか。嫌な汗がじっとりと吹き出て、開いた両手が小刻みに震えていた。

61 名前: ◆WGnaka/o0o :2006/04/17(月) 04:33:59.28 ID:byST1JIM0
 まさかと思う気持ちと、そうであってほしいという気持ちが混ざり合って本質を見失う。
 例えそうであったとしても、俺はどうすれば良いか判らない。
 疑心のままでは向き合うことさえ出来ないだろう。
「一つ聞きたいことがある」
「はい、なんですか?」
「名前、教えてくれるかな」
 これはただの希望だった。いや、過信を確信に変えるための願望かもしれない。
 少女は少し考えたあと、相変わらずの柔らかい笑顔で言葉を紡いだ。
「私の名は――」


 重複する蝉の鳴き声がうるさいほどに響き渡っていた。
 もう二度と離さぬよう、その小さな体を強く腕の中で抱き締める。
「痛いよ……お兄ちゃん」
「うぅっ、ごめん、ごめんよ……悠美」

 この十年間、本当は生きてるんじゃないかと信じていた。
 変わってしまったこの町には、変わらないものも確かに在った。
 知らない町を旅していたと思っていたのに、ただ住んでいた故郷に戻ってきただけだった。
 俺たちを嘘で引き離した天国に居る両親の驚く顔が目に浮かぶようだ。

 俺の旅は遠い昔に置き忘れてきたカケラを拾い集めるためにしてきたのだろう。
 けれど、そんなものはもう見つからないと思っていた。
 目的もないと思っていた旅の終着地点であり出発地点。それが、ここなのかもしれない。
 寂しい一人旅は終わりを迎え、新しい二人旅がこれから始まる。
 過去の悲しみと辛い思い出は、夏色に染まった空へと旅立った風船が連れていってくれるだろうと信じて。


  了



BACK−無題◆pzaWLWAfA6  |  INDEXへ  |