793 名前:旅1 ◆5GkjU9JaiQ :2006/04/16(日) 14:10:41.34 ID:VRZXaUnfO
一ヶ月振りに帰って来た東京は、何も変わっていなかった。
街を歩く人々の顔ぶれも、不揃いで薄汚れたビルも。一ヶ月前と何か違うところを探すが、何か変わったようには見えなかった。
僕は人混みの中を、黙って歩く。
僕は、旅から帰って来たのだ。
大学で後期の試験を終えた僕は、今までのバイトで溜めた金を使って旅に出た。
本音を言えば「深夜特急」のようにユーラシア大陸に渡りたかったが、現実的にそれを行うのは難しい。
語学に乏しく、偏食の傾向がある僕の旅の行き先はせいぜい国内が似合いだろう。
それでも、頭も身体も生温さで腐ってしまいそうな日常から離れたかった僕は出来るだけ遠く、こことは違う場所を――東北地方を選ぶ。
事前に何かを調べるような真似はしない。僕は観光名所を見に行きたい訳じゃない。
夜行の長距離バスに乗り、八戸へと向かう。
降り立った街に、都会の匂いはしなかった。
高さを競い合っているようなビル街もなかったし、人々の歩き方は都会のそれに比べて随分緩やかだったように思う。
人との触れ合い、震えるような情景。非日常の時間。
僕はこれから起こり得るであろう、新たな体験への期待に胸を高鳴らせた。
力強く頷き、これが旅なんだ、と強く思う。
794 名前:旅2 ◆5GkjU9JaiQ :2006/04/16(日) 14:12:09.16 ID:VRZXaUnfO
最初は、当てもなくぶらぶらと街を歩いているだけでも楽しかった。
普段なら見過ごしてしまいそうな風景をじっと眺め、ゆっくりと街に流れる時間に歩調を合わせる。
それだけで、僕は特別なことをしているのだと思えた。
自宅の鍵を開けると、見慣れたそのままの部屋がそこにあった。
失望。
溜め息をつく気にもなれない。
僕はバッグを降ろし、部屋の一角に座る。
煙草をポケットから取り出し、それを食わえて火を付ける。
部屋の停滞した空気の中で、紫煙はゆっくりと天井に昇っていく。
何があったという訳ではない。
むしろ、何もなかったことが僕の失望の原因だろう。
田舎の風景はそう長く僕を惹き付けることは出来なかった。
高揚感は日を追うごとに薄れ、足をただ動かす日々は僕に疲弊だけをもたらしていく。
磨耗していく体力、気力、好奇心。
それでも何か、新鮮な感動を求めて歩かない訳には行かない。
電車、バス、徒歩。南に。南に。
適当な街で足を止め、歩き回り。
憑かれた様に、本州を南下していく。
歩けば何かに出会えると信じて。
795 名前:旅3 ◆5GkjU9JaiQ :2006/04/16(日) 14:14:14.75 ID:VRZXaUnfO
仙台に到着し、都会らしい人混みを再び目にした時に僕は確信した。
多分、僕が期待しているようなことは何も起こらない。所詮、そんなものは幻想に過ぎないのだ、と。
そして僕は何の躊躇もなく新幹線に乗り、ここに帰って来た。
傾いていく陽を眺めながら、通り過ぎた街を思う。すれ違った人々を思う。
感傷のようなものは見付からない。そこに在るのは、薄い虚しさ。
置いて行った携帯電話には、友人からのメールが数通溜まっていた。
何を思うことなく、それに返信をする。
僕は、ここから逃げることは出来なかった。
―了―