【 たった一言 】
◆qVkH7XR8gk




43 No.15 たった一言 (1/4) ◇qVkH7XR8gk 06/12/09 19:14:42 ID:2hU/fa3Q
 病院の一室で分厚いハードカバーの本を読んでいる少女は、まったく生という言葉から程遠く、たまに思い出したようにページをめくる動きが無ければよく出来た石膏像のようだった。白磁のように真っ白な肌が余計にそう思わせるのかもしれない。
 薄い布団の端からはチューブやケーブルが何本か伸び、部屋の隅で鈍く音を立てる機械に繋がっている。
 部屋の隅に作りつけのクローゼットがあるだけで、家具らしきものは見当たらない。壁に絵が掛かってるわけでもなく、ベッドの脇のサイドボードの上には本が乱雑に積み上げられているだけで、テレビもラジオも無い。
 サイドボードの上の本は随分と分厚い本ばかりで、文学作品から学術書まで、てんでばらばらなジャンルのものが散らばっている。
 ぱたん、と音を立てて分厚い本が閉じられる。月に一度、見舞いに来てくれる母が差し入れてくれる数冊の本だけが楽しみだったが、最近では半月も掛からずに読みつくしてしまえた。今閉じられた本も、既に一通り読み終えてあった。
 幸いなことに、今日がその見舞いの日だった。

 次に来る時にはもう少し多く持ってきてもらおう。
 窓の外の景色をぼんやりと眺めながら少女はそんなことを考えていた。十年近くもの間毎日一度は見ている景色は、代わり映えの無いものにしか見えない。誰かが気を利かせて毎年植え替えてくれる花壇の花が咲くのを心待ちにしていた時期もあったが、
最近はもうどうでも良いようにしか思えなかった。
 母が今日持ってきてくれる本がどんなものかと考える。どこから持ってきているのかそのジャンルは多岐に渡っていた。医学の専門書を持ってくることもあって、少し困った覚えがあった。
 ふと考えるのを止めて、母が見舞いに来てくれることよりも、新しい本が読めることを喜んでいる自分が居て、少し可笑しくて笑った。
 五年ほど昔からだ、自分がここまで本の虫になったのは。母が来るなり今日は何を持ってきてくれたのかと、開口一番言うようになっていた。それまではニ、三時間も他愛も無いお喋りをして母を困らせていたというのに、
以来そそくさと掃除など部屋の中を軽く世話して帰るようになっていた。
 疲れたような顔をして無理に浮かべた微笑みで娘と話す母。体調はどうだとか、何かほしいものは無いかとか、およそ母子の会話とは縁遠い会話。
 来るたびに少しずつ痩せていく母親。特にこの一年ほどで見違えるほどに頼りなさげになった。
 来るのが負担なら、毎月本だけ送ってくれれば良い。そう母の身を気遣う一言でも掛けようと思って窓の外に意識を戻すと、病院の庭先に小さく猫背で視線を落として歩く初老の女性が見えた。

44 No.15 たった一言 (2/4) ◇qVkH7XR8gk 06/12/09 19:16:48 ID:2hU/fa3Q
「先生……娘は…………そうですか」
 閉じた扉の向こうから、病室の中に少しだけ母と主治医の会話が漏れ聞こえてくる。いつもそうだった。ただ、今日は母の声が一段と沈んで聞こえる。
 自分の体のことかと思うと、少し気分が落ち込む。
 少女は生まれつき体が弱く、物心付いた頃には病室のクリーム色の壁を眺めていた。母の話だと、生まれて半年ほどで病院暮らしとなり、六歳までに片手で数え切れないほどの転院をしたという。
 十七年も生きていられたのは奇跡のように思えていたし、その分いつ人生に終わりが来てもいいように思っていた。
 人並みの――といっても、彼女には普通の十七歳の少女がどのような生活を送るものなのか想像も付かなかったし、ロマンス小説にあるようなむず痒い体験は所詮空想だと分かりきっていた。人並みの人生を送りたかったなんていう心残りは、少女には無かった。
 ただ、ここまで自分の世話をしてくれた母のことを思うと、いつ死んでも良いなどとは言い出せないでいた。

「少し遅くなったかしら」
「そんなことないわ。特に何もやることも無かったし」
 時計が無い部屋で、少女に母がどれだけ遅れたかなんて知りようも無かった。それに、時間だけは有り余っていたから、何も気にならない。
「今日は――ちょっと先生とお話があるから、こっちに泊まっていくの。何かして欲しいこととか、ある?」
 先ほどの廊下での会話はそれなりに深刻なことだったようで、そう言う母の顔は微笑んでいるものの、少し陰りが見えた。
「じゃあ、久しぶりに母さんに髪でも切ってもらおうかしら。そろそろ伸びてきた頃だと思うの」
「ええ、良いわよ。それじゃ、夕食の後にでもまた来るわね」
 本の入った紙袋をベッドの脇に置くと、母は部屋を後にした。
 いつもなら母が部屋を出て行く前に袋から本を取り出して品定めをするのに、少し考えるように俯くと、少女は溜息をこぼした。

45 No.15 たった一言 (3/4) ◇qVkH7XR8gk 06/12/09 19:17:01 ID:2hU/fa3Q
 夕食をいつもどおり簡単に済ませ、少し気乗りしなかったが紙袋から本を適当に取り出すとページをめくり始めた。母親が来るまでの時間つぶしにでもなればいい、と思って開いたが、十ページも読まないうちに母がドアを開けた。
「その本、読み終わるまで待ちましょうか?」
「いいのよ、母さんが来るまでの暇つぶしにでもなればいいと思って、今読み始めたところだから」
 本を閉じると、サイドボードの上に適当に置いた。
 随分と疲れた感じのする母が、ベッドの脇にある椅子に腰を掛けた。娘の髪を切ろうというのに、はさみも櫛も何も手にしていなかった。
「母さ――」
 少女の言葉をさえぎって、母が一言だけポツリと呟く。
「――ありがとね」
 慙愧の念をごまかすための、およそ場に似つかわしく無い言葉だった。
 その言葉の本当の意味を知ろうと、娘が胸の内で反芻――する間もなく、母は娘の体から無数に伸びたチューブの先に繋がる機械のスイッチを押す。とたん、電子音が病室に鳴り響いた。
 少女はすこし驚いてナースコールに手を伸ばそうとするが、ずっと目線を逸らしたままでいる母の顔を見ると、腕を引いた。
 悲痛な面持ちで娘の顔を見まいとする母を、じっと見つめる。
 やつれた顔。小さくなった母の姿。左手の薬指でふと目が止まる。先月までは確かにしていた、父との結婚指輪を外していた。
 思えば昔はもう少し着飾っていた母は、随分と簡素な身なりをしていた。革のバッグを布の手提げ袋に変え、父からのプレゼントだと言っていたネックレスを外し、タクシーで来ていた病院にもいつしか歩いて来るようになっていた。

46 No.15 たった一言 (4/4) ◇qVkH7XR8gk 06/12/09 19:17:11 ID:2hU/fa3Q
「ありがとう、母さん」
 自分に死という結末を強いた母に微笑みかける少女。世間なんてものを知らなくても、母が苦労を重ねたことは容易に想像が付く。
 その微笑は少女が出来る、せめてもの感謝の気持ちだった。
 ハッとして、母は慌てて機械のスイッチを戻そうとする。はずみで床に置いた手提げ袋を倒し、中のものがこぼれる。ころころと転がる薬瓶。
 スイッチに手が触れたところで、不意に振り向いた母と、ただ笑みを浮かべた顔で母を見る娘の目が合う。
 伸ばした手をためらいがちにおろし、もう一度娘の顔を見る。
 少女が母の方へすっと手を伸ばした。
「手、握っててくれないかな?」
「ええ」
 そっと手を重ねる。言いたい事はいくつもあったかもしれない。でも、二人の間には、それ以上は何もいらなかった。
 少しずつ眠るように意識が薄れていくのを感じながら、少女は母の手のぬくもりを感じていた。もう少し早く母の苦悩に気づいていればと、何か言おうとした時には体が動かなかった。
 手を繋いでいれば、何が言いたいのか分かるような気がした。何もいわなくていい、とでも言うように母は首を横に振る。二人の目には堰を切ったように涙が溢れている。
 ありがとう、の短い一言に全ての感情を詰め込んで、何度も胸の中で繰り返す。
 眠るようにゆっくりと目を閉じた少女。ベッドにもたれ掛かるようにして眠る母。手はしっかりと繋がれたまま。
 静かに息を止めた二人は、まぎれもなく親子だった。



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