【 半熟 】
◆gJmjtc7Vdg




31 No.10 半熟 (1/4) ◇gJmjtc7Vdg 06/12/09 11:25:29 ID:2hU/fa3Q
 背を曲げて前かがみになる父親を、これで何度見ただろうか。
 子供の頃の僕は、余りに幼く稚拙だった、両親も呆れるほどに。
 腕白な子供にはよくありがちなことだが、同級生の友人としばしば殴りあいの
喧嘩をした。比較的腕力に秀でていた僕は大抵相手の少年を泣かしてしまい、後
日父とその子の家に頭を下げに行くことがほぼ毎月のように起こっていた。
 僕の横で父が腰を低くしているのを見て、僕は情けなく思っていた。何に対し
てか。それはぺこぺことしている惨めな父と、そんなことを父に強いながら決し
てそれに倣わなかった自分に対してだ。
 僕は頑として頭を下げることを拒んだ。大した理由などは無い。ただのつまら
ない意地だ。今となってはよく分からないが、そのときは父のようにすることが
恥ずかしいと思っていた気がする。そうしてそっぽを向いている僕の頭を父の大
きな手が無理やり下げさせることで、毎回一応の決着を見せる。僕としても、自
分で下げたのではなく、父によって無理やり下げさせられたということで、下ら
ない矜持を保っていた。本当に下らない矜持である。
 そんな帰り道、父は決まって僕を公園に連れて行った。父はいつも同じベンチ
に腰かけ、僕もその隣に静かに座る。暫くして父は立ち上がり、僕もその後につ
いて帰宅する。その日も定例の如くだった、途中までは。
 僕と父は何も喋らずにじっと公園で遊ぶ子供達を見ていた。気まずさのために
 僕からは何も話せずにいると、父はやおら僕の方を見て言った。
「なあ、透。謝るのは嫌か?」
 さすがにこう何度もやらかしていては温和な父にも怒られるだろうと思ってい
た僕は、その突然の言葉にどきっとして父の方を見た。顔は怒っていないように
見えた。

32 No.10 半熟 (2/4) ◇gJmjtc7Vdg 06/12/09 11:25:42 ID:2hU/fa3Q
 僕は何も答えずに、父の視線に負けて俯いた。
「そうか……。好きな人なんていないか」と父は軽く笑った。
 僕は俯いていた視線を上げ、仄笑う父を見た。
「だけどな、透。もし透が少しでも悪いと思ったのなら、ちゃんと謝らないとい
けないぞ。そうしないと……そうだな、もう少し大きくなったら分かるかな」
 父は微笑んでそう言った。十年たった今でもそのときのことを鮮明に覚えてい
る。けれど覚えているだけだ。

「だから」
 俺は強い調子で叫んだ。声音には思いよりも不満が先走っていた。
「確かに嘘をついたのは俺だけど、お前にだって非はあるだろう」
 同棲相手の女に詰め寄って、俺は声高に相手を非難した。虚ろな中身を隠すた
めのほとんど虚勢に近かった。
あれから十年、二十歳を過ぎた俺はあのときの父の教訓を全く生かせていなか
った。今回の些細な喧嘩も、発端たる要因は俺のほうにある。が、そうと分かっ
てはいるもの、素直にそう言えない俺は、あの頃から少しも変わっていない。悪
いとは思っているのだ、悪いとは。だがそれを言葉にして表すことには多大なる
抵抗があった。糞ほどの器量しか持たない自分に、自分でもほとほと愛想が尽き
る。ただ一言謝ることもできない、弱い自分。それから目を逸らすかのように俺
は声を張り上げた。
「お前があのとき何も言わないで出てったから、俺だって仕方なく――」
「仕方なく? 仕方なく何? 仕方ないから嘘ついても良いって言うの?」
 女も俺に負けぬ強い声で言い返してきた。彼女の名は真由美といった。

「本当に申し訳ありません」
 母は九十度に背を曲げた。その後姿は滑稽だった。

33 No.10 半熟 (3/4) ◇gJmjtc7Vdg 06/12/09 11:25:54 ID:2hU/fa3Q
 警察署の待合室のようなところで、椅子に座って私は母の後姿を眺めていた。
 家出と窃盗などの小さな犯罪を繰り返していた私は、しばしばこうして警察の
厄介になっていた。そうすると決まって迎えに来たのが母だった。母はいつもの
ように平身低頭して警官に温情の礼を述べ、それにほだされた警官が私と母を出
口へと案内する。そして母がまた頭を下げて二人は家に帰る。今日も同じような
具合だった。
 警官に呼ばれた私は、やっと家に帰れると喜びつつも、母の迎えの遅さに苛立
ちを覚えていた。それは完全なる逆ギレだったが、そのときの私は本当にそう思
っていたのだから愚かとしか言いようがない。けれど、そんな私も母が何度も頭
を下げている姿を見ると、胸にずきんと痛む思いを抱いたのはやはり子供だから
だろう。
 それに母はこう何度も私に振り回されながらも、何一つ小言を言う事はなかっ
た。いつも私を迎えにきて、警官に謝って、二人で家に帰って、何事もなく日常
を始める。私が再び何か愚行を犯すまで。
 警察署を後にした私達は、連なって帰路に着いていた。無言で歩く二人だった
が、ある角を曲がったところで母が二度三度咳をした。その音に母の顔をちらと
覗いてみると、いささか顔が赤い気がした。
 私は非常な努力をもって声をかけてみた。声は小さなものだった。
「風邪でもひいてるの?」
 母は驚いたように私のほうを見て、小さく首を横に振った。
「ううん、大丈夫よ」と笑った母はどこか弱弱しかった。
「真由美、そんな格好じゃ寒いでしょ。これ着なさい」
 そう言って、母は自分の着ていたコートを私の肩にかけようとした。私の格好
は確かにこの肌寒い夜道にはそぐわなかったが、私は慌ててそれを制止した。
「いいよ、そっちのほうが寒そうじゃん」
 母は少し悲しそうな表情をした。お母さんと言えず、そっちと言ってしまった
ことをちょっと後悔した。
「お母さんは大丈夫だから」

34 No.10 半熟 (4/4) ◇gJmjtc7Vdg 06/12/09 11:26:06 ID:2hU/fa3Q
 母は押しとどめようとする私の手を無視して強引にそれを羽織らせた。私もそ
れ以上は言えず黙ってそのコートを羽織っていた。急激に湧き上がってきた愚挙
への悔恨が母の顔を見させてはくれなかった。そんな思いを抱きつつも言葉には
出来ない私は、自分が嫌いになった。ありがとうの一言すら言う事も出来ずに、
私は母と暗い路地を家まで歩いた。

 あれから三年、私は何の成長もしていない。
「あんたが嘘さえつかなきゃ何だってなかったんだから」
 私は同棲相手の男を睨んだ。
「あんたがそんなだから、こんなことになるのよ」
 それは嘘だ。結果としてそうなっただけで事実は違う。元々は私が無断で家を
出たことから、こうなっている。それさえなければ現在のような事態にはなって
いないのだ。そうと分かっていても私は自分の非を認めることができずに、相手
を責めることで自己を正当化しようとしていた。ただ一言謝りさえすれば、こん
なふうに透を怒らせることもないのに。
「あんたっていっつもそうだよね。自分が悪いって認めないでさ、ちっとも謝ろ
うとしないし。これからもずっとそうなら――」
「それはお前だって同じだろ。お前が謝ったところなんて、今まで一度も見た事
無いぜ。お前みたいな強情な女初めてだ」
 睨み合う時間が続き、だがそれが意味のないものだということは、多分向こう
も分かっているのだろう。私達はどちらかともなく喧嘩を中断し、床に就いた。
一人用のベッドに二人は身を縮め、背を向け合って横になる。自分の非を認め
るたったの一言を言うことができずに。そして翌日には、気まずいながらも何事
も無かったかのように一日を送ることになる。お互いの影に触れないように注意
しつつ、贖罪の気持ちから幾らか低姿勢になって。





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