354 名前: ◆AQKQQcmJ.A 投稿日:2006/11/25(土) 01:08:53.48 ID:SOumOKes0
一面に広がる黄緑色のカーペット、どこまで続いているのか分からない地平線の中に小さな花畑がある。
パンジーやコスモス、ヒマワリやタンポポ。 同時に自生することがありないそれらの花々は、僕の目覚めを待つかのようにゆっくりとその鮮やかな顔を震わせていた。
「あら、こんなところにもお花畑ができてる」
柔らかな絹が暖かな風にたなびいていた。
声の主は、その声と比例するかのような純白のローブとふちの長い帽子をまとい、僕に話しかけてくる。
「あなたも眠っていたのね。ここは最果ての場所。この世の終わりと始まりのあいだなの」
まだ15歳に満たないであろうその少女は、黒くて長い髪を風に遊ばせながら微笑み続けた。
ここはどこだろう。
僕が一番最後に記憶している景色は病院の天井だ。
心臓の手術のためにベッドに寝かせられ、麻酔をかけられるところまでは覚えている。
ということは、まさかここは死後の世界なのだろうか。僕は死んでしまったのか?
「僕は……いったいどうしてこんなところに。僕は死んだのか?」
「半分正解、ね」
表情を変えずにそう告げると、少女は被っていた白い帽子をゆっくりと脱いだ。
「ようこそ、懲戒の原へ」
355 名前: ◆AQKQQcmJ.A 投稿日:2006/11/25(土) 01:09:20.86 ID:SOumOKes0
突然、貧血を起こしたときのように視界が歪んだ。先ほどまで桃源郷のように見えていた景色が、たちまち表情を変えたように思えた。
「懲戒の……原? ここはどこだ? 俺は確か病院で、寝ていて……そうだ、手術だ。手術をするために麻酔をかけて、それで」
「落ち着いて」
気がつけば少女は僕の隣に座っていた。
「ここは死後の世界でも、現実の世界でもないの。ここはその狭間。世界と世界をつむぐ最果ての場所」
「にわかに信じられない……僕はまだ死んでいないってことか。僕はどうすればいい?」
「それを選ぶのはあなた」
少女は一直線に僕を見据えながら立ち上がり、足元に生えていた少し青さの残るヒマワリを引き抜いた。
「な、なにを」
僕のことを気に留めずに、少女は引き抜いた若いヒマワリを空に向かって投げた。
最初、幼い色をしたヒマワリは少女の力を借りて重力にあながっていた。
しかし地面から3メートルほど離れたときだろうか、そのヒマワリは急に加速度を増し、まるで天から垂らされた釣り糸にでも引っ張れるかのように空高く消えていった。
少女はなおも微笑む。
「急にスピードが変わったでしょ? あそこが境目。あそこより下があの世で、あそこから上が現世っていわれてるところなの」
356 名前: ◆AQKQQcmJ.A 投稿日:2006/11/25(土) 01:09:35.76 ID:SOumOKes0
どこまでも上昇していく黄色い花を見つめながら、僕はため息を吐いた。
「背伸びすれば届きそうじゃないか。こんな近くに生と死の境目があるっていうのか」
「そういうこと。信じるも信じないもあなた次第なの。もし向こう側に行きたいのならそこに手を伸ばしなさい。もしそうじゃないのなら……」
黄色い花はついに目視できないほど高くへと消えてしまった。僕は視線を少女に落としながらつぶやく。
「そうか。死んじゃったんだ。じゃあもう戻ることはできないだろう」
「そんなことはないわ。全てあなた次第なの」
少女は半ば僕を諭すように語り始めた。
「手を伸ばせば届くところに答えはあるの。決めるのはあなただけど……もとの世界に戻りたいのなら手を伸ばせばいい、そうじゃないのなら……」
何かをためらうように、少女は口をつぐんだ。先ほどまでずっと浮かべていた微笑も、どこか濁ったように感じる。
「そうか、うん……わかった。生きるよ。まだやり残したことがある気がするし」
「よかった」
少女は少し寂しそうに微笑むと、うつむいた。
僕らを包み込んでいる空は南国の海のように青く澄み渡り、雲ひとつない。
「もう多分会うことはないけれど、行ってらっしゃい。気をつけてね」
「ありがとう。君も元気で」
僕はそう告げると空に向かって手を伸ばした。
するとどうだろう。指先がある境界を越えた瞬間に、僕の体全体が何かに引っ張られるように空へと放り出された。
空高く舞い上がるという感覚は、高層ビルの最上階から落下する感覚に似ているかもしれない。
いや、実際に落下したことはないのであくまで予想なのだが。
気を失いそうな加速度の端で、僕の目が少女の姿をとらえた。
悲しそうに空を見上げる彼女は、僕に何を求めていたのだろうか。
357 名前: ◆AQKQQcmJ.A 投稿日:2006/11/25(土) 01:09:54.10 ID:SOumOKes0
定期的に鳴り響く電子音。乳白色の天井が僕を迎えてくれた。
体を起こそうとすると、体中に繋がれている透明なチューブが行動を阻害する。
意識が徐々に明瞭になっていくのがわかった。僕は帰ってきたのだ。
「あ……先生、内藤さんの意識が」
丁度回診の時間だったのだろうか、僕が眠っていた部屋の前を通り過ぎようとした看護婦が叫んだ。
僕はどれくらい眠っていたのだろうか。
手術を受ける前は満開だったはずの桜も、いまではすっかりその茶褐色の肌を寂しく晒している。
まだはっきりとしない頭で、部屋を見渡す。
部屋の外の空はダークグレイ、冬の寒さは草花を枯らせていた。
「懲戒の原……か」
もしかしたら、あそこは……懲戒の原と呼ばれるあの草原は、楽園だったのかもしれない。
懲戒の原という名前は、懲戒を受ける場所という意味ではなく、そこを超えてしまうとがすなわち懲戒ということなのかもしれないな。
「僕は自ら罰を受けに戻ってきたのか」
人は死の間際、長い夢を見るといわれている。
あれは夢だったのだろうか。
徐々に記憶から消え始める少女の顔を思い出しながら、視線を窓からベッドへと落とす。
ベッドの上では、無造作に置かれた幼いヒマワリが、季節外れの笑顔を浮かべていた。
-了-