【 蜘蛛が嫌いなSpider 】
◆ybxPR5QFps




728 名前:蜘蛛が嫌いなSpider ◆ybxPR5QFps 投稿日:2006/11/18(土) 00:17:09.92 ID:9OtlNH6m0
-1-

 ドガァァァァァァァン!!
 コンクリの壁を穿つ爆音は、テーブルに座る一人の男の仕業だった。
 硝煙をくゆらせる男の拳銃を見て、ヒゲ面で愛想のない黒人のバーテンが「ちっ」と口を鳴らす。
「おい。ただでさえすき間風がケツの痔にさわるってのに、これ以上風通しよくしてくれるなよ」
「悪いなオヤジ、もう撃っちまった後だよ。第一俺のクモ嫌いはあんただって知ってるだろ? あんなけったくそ悪い害虫を飼ってるこの店が悪い」
 バーテンは特に表情を変えずにグラスを磨き続ける。まるで男のこんな横暴には慣れっこだとでもいうかのように。
「飼ってるわけじゃねえ。だがな、俺に言わせりゃクモ一匹いない店なんてロクなもんじゃねえさ。きっとスーツにネクタイの連中が寄って集って株の話でもしてるんだろう」
 バーテンはまるでそれが墓場の怪談ででもあるかのように、肩をすくめて怖がって見せた。
 これに男は声をあげて笑った。
「あるいは政治の話――とか。次の休みに行くゴルフの打ち合わせかも知れねえな」
「ふっ……やけに詳しいな。お前さんそういう生活に憧れてたりするのか?」
「バカ言うな。俺だってごめんだよ。でも、ま、いつかは……そうだな、あんたみたいにしみったれたバーのマスターとか、悪くないかもな」
「ふん、しみったれた店で悪かったな」
「俺以外に客のいねえこんな店、よく潰れないもんだといつも感心してるぜ」
 男はやれやれと両手を上げておどけてみせる。
 繁華街から道一本外れた裏街の、さらに奥に店はあった。
 外から見ると、汚れたガラスのせいで夜でも暗く見える、そんな小さな店だった。
 いつも通りの夜。
 の、はずだった……。
 だがバーテンと男は、ドアを小さく軋ませて入ってきた客を見て顔色を変えた。
「い、痛ぇよ……、ちくしょう……痛ぇ……くそったれ……」
 バーテンは磨きかけのグラスを床に叩きつけて駆け寄った。
「ジョン! おい、大丈夫か!? くそっ……酷い傷だ。こいつは内臓をやられてる」
「寒い……くそっ……くそったれ……寒くてしょうがねえ……」
 うす汚れた、いかにも街の下層に位置すると思われる、黒人の青年だった。
 この通りは、街でも特に住むところのないような貧困層が暮らす黒人街だ。
 白人のボンボンや、なにも知らない東洋人の観光客が足を踏み入れれば、ただでは済まない。

729 名前:蜘蛛が嫌いなSpider ◆ybxPR5QFps 投稿日:2006/11/18(土) 00:18:23.48 ID:9OtlNH6m0
 そしてもちろん、その逆も。
 時としてそれは激しい争いに発展し、この青年のように撃たれて死んでゆく者も後を絶たなかった。
 保険に入れない貧困層の若者は、病院に行くこともできずに、こうしてここへやってくる。
 誰も見ない――見ようとしないこの場所で、治安はどこまでも悪かった。
「やったのはスフリップ団だな?」
 それまで黙っていた”この通りで唯一の白人の男”が聞いた。
 青年はガクガクと頷いて、やがて静かに目を閉じた。
 バーテンは深刻な表情で青年を横たえると、親の敵を罵るように声を荒げた。
「くそっ! スフリップ団……最近この街にきたK・K・K気取りのストリートギャングだ」
 白人の男は青年のポケットから小さなビニール袋を取り出した。
「ヤクだ。おそらくスフリップ団はここでヤクを撒くつもりなんだろう。そしてジョンは……誰が見ても分る。こいつに金は払えっこない。走って逃げようとした背中にズドン。そんなところだろう」
 バーテンはそれを聞いて泣き出した。
「なんてこった……ああなんてこった! ジョン、お前がヤクに手を出してたなんて。俺は口をすっぱくして言ってたんだ。ヤクだけはやるなって……」
 静かに横たわる青年に顔を埋めるようにして泣いていたバーテンは、しかし長年の勘で、出て行こうとする白人の男の気配を捉えた。
「行くのか……?」
 白人の男は振り返らず「ああ」とだけ言った。
「待てスミ――」
「俺に名前はねえ! 俺のあだ名はなんだ、オヤジ?」
 バーテンの言葉を遮って白人の男は鋭く叫んだ。
 バーテンはゆっくりとその名を口にする。
「スパイダー」
「そうだ、俺はクモ嫌いのスパイダー。へへっ、皮肉なもんだよな。クモ嫌いが嵩じてそれがあだ名になっちまうんだから。じゃあちょっくら行ってくるぜ……。
自分を鷲かなにかと勘違いし、こんなしみったれた街にまで集る、哀れな蛾どもを掃除しにな。帰ってきたら棚の後ろに隠してるあのワインを開けてくれや」
 今まで幾度となく口にしたその軽口を言い、バーテンもいつも通りにこう答える。
「バレちまっちゃしょうがねえ。今夜は寝ないで待ってるぜ」
 一人になったバーテンは、まだ弾痕も生々しいコンクリの壁を見た。
 壁を這うクモを正確に打ち抜いたその穴は、飛び散った体液がまるで輪のように重なっていた。

730 名前:蜘蛛が嫌いなSpider ◆ybxPR5QFps 投稿日:2006/11/18(土) 00:20:14.95 ID:9OtlNH6m0
-2-
 
 今日は嫌な日だ。
 夜中に外に出るときは決まって”仕事”のせいだったが、クモを撃った日には出たことはない。
 スミスはクモが嫌いだった。
 子供の時から見ただけで悲鳴を上げ、身体に落ちてきたときはションベンを漏らしたこともある。
 (そしてあの時……)
 スミスがまだ保安官と呼ばれていた頃、家に強盗が押し入った。
 妻は人質に取られ、逆上した犯人に今にも撃たれそうだった。
 同僚の誰よりも腕の立つスミスは、立て篭もる犯人を狙撃する役を買って出た。
 木陰の茂みに身を潜め、スコープ越しに照準を定める。
 引き金を引こうとしたその瞬間、一匹のクモが肩に落ちてきた。スミスにはそれがクモだとすぐに分った。
 (そしてビクついた俺は思わず引き金を引き――)
「嫌な夜だ……」
 なんであの時のことがこんなにも頭をよぎるのか……。すべてクモのせいだ。あのけったくそ悪いクモの野郎のせいだ。
「違う……」
 違う、本当は自分のせいだ。そんなことは分ってる。だが、それでも……。
 あの日自分の妻を撃ってしまったスミスは、社会からつまはじきにされた。お上はマスコミの批難をそらすトカゲの尻尾としてスミスをクビにした。
 スミスは裏通りのあのバーに転がり込んで酒に溺れ、”法を守る保安官”から”街を守るスパイダー”になった。
 (保安官だった頃から、この街は俺が守ってきた。だから職を解かれても、この街を守ることだけは止める気はない。妻がいた、この街だけは――)
「いたな……」
 路上に止めてある車の陰に隠れ、ライフルのスコープ越しに、外灯の下でヤクらしきビニール袋を渡そうとしているスフリップ団の男を狙う。
 だが客の位置が悪く、なかなか狙いが定まらない。
 なんとか狙いを付けて引き金に指をかけたその時、肩に何かが乗っかる感触がした。
 クモだ!

731 名前:蜘蛛が嫌いなSpider ◆ybxPR5QFps 投稿日:2006/11/18(土) 00:21:08.06 ID:9OtlNH6m0
「ひっ……!」
 なんとか悲鳴を押さえ込み、左手できつく口を締め付ける。
 自分の意志とは関係なく震えだす指先。
 その時、通りの向こうから男の叫び声がした。死んだジョンの仲間だろうか?
 通りの角から飛び出した男を見て、スフリップ団の男は素早く拳銃を向ける。
 (まずい……!)
 全身をつたう冷たい汗を感じながら引き金を絞る。
 一発の銃声が夜闇を裂いて響き渡った。

732 名前:蜘蛛が嫌いなSpider ◆ybxPR5QFps 投稿日:2006/11/18(土) 00:21:52.20 ID:9OtlNH6m0
-3-

 そして街の片隅の小さなバーに、一人の男が帰ってきた。
「ようオヤジ。ワインは用意してあるかい?」
 バーテンは肩をすくめて言う。
「すまねえ。帰りが遅いもんだから、つい、な。その代わり今日はおごりにしておくよ」
 これもいつものやりとり。
 しかしその時バーテンの目の色が変わった。
 カウンターの脇をゆっくりと歩く、一匹のクモを見つけてしまったのだ。
 男もそれに気付き、拳銃を取り出したのを見てバーテンは慌てた。
「お、おい。頼むから……」
 しかしバーテンがいい終わる前に、ピタリと狙いを据えた銃口を、ふっと離す。
「あ……あれ?」
 耳を抑えたバーテンの不思議そうな声を聞いて、男はおかしそうに口の端を歪めた。
「俺のせいなんだよ……そうさ、クモは悪くない。……なあオヤジ、聞いてくれるか?」
「珍しいな。なんだい?」
 男が自分から話を振ることは滅多にない。バーテンは興味をそそられたように聞き返した。
「俺が今までやってきたことは、ただの人殺しだ。こいつはいつもそれを見ていたんだ。あの時も、そして今までも」
 カサカサとカウンターを移動するクモを見つめて、男はグラスを傾ける。琥珀色の液体を美味そうに口へと運ぶ。
「人殺しか……確かにそうかも知れねえ。だがな、お前にゃ黒人も白人もない。もちろん法も……ただのスパイダー、そうだろ?」
 男はニヤリと笑う。
「こいつには最後の最後まで俺の罪を見続けてもらう。そして地獄まで連れていってもらうのさ」
 バーテンは黙ってウィスキーのおかわりを差し出した。
 グラスに映ったクモは、琥珀色に輝いていた。

      -了-



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