【 運 】
◆/YXK0zo7ak




716 名前:運 ◆dLz7rnRq7c 投稿日:2006/11/18(土) 00:00:48.89 ID:rnZwhZWE0
 一体全体おれが何したっていうんだ!
 男は誰彼構わず怒鳴り散らしたくなるほどの怒りを抱え、憮然として路上に立
ち尽くしていた。中肉中背の若干やせ気味な体を温かそうな紺地のロングコート
に柔らかく包み込まれ、はだけた前の部分からはスーツとその下の白シャツが窺
える二十代半ばと見られる若い男、しかしそれは数秒前までの男の姿である。
 季節は冬真っ只中、十二月も今日で終わり新年まで後何時間という頃、日も大分
暮れてきた道端で、男はむすっとしたまま微動だにしていない。分厚い雲の塊
は底面を暗灰色に彩られ、どんよりとした空模様は厳めしく男を睨み付ける。
 バケツの水をぶっかけられたような全身ずぶ濡れの状態で、見えぬ地平線でも
求めているのか、じっと行く手を見据えている。路上のあちらこちらでは発疹
でも患ったかのように水溜りが発生しており、男のすぐ脇にも一際大きな水溜りがある。
 実はほんの数秒前、背後から近づいてきた自動車が構わず脇を通り過ぎ、避け
ようと電信柱に寄り添っていた男に大いにその水をかけていったのだ。その道
は自動車一台がようやっと通れるという幅しかなく、男は薄々その危険を憂慮
していたのだが、きっと自動車の側も配慮してくれるだろうという甘い期待に
かまけてその場を離れるということはしなかった。本当に甘かったと、男は今
身に染みて思い知らされていた。
「くそっ!」
 男は見渡す限り人のいない寂しい路地で、押さえきれずにそう漏らした。
まったく何て奴だ、あの運転手は! 雨上がりなんだからそれくらい注意しろってんだ。
減速すらしないなんて、そんなの常識だろーが! 一体どんな教育を受けて育ったんだ。
憤怒に駆り立てられながらも、首を巡らし自分の姿を見やった。コートもその
下のスーツもびしょびしょに濡れている。二週間前に買ったばかりの新品だって
いうのに……、男はあまりの悲しさに思わず泣きたくなった。


717 名前:運 ◆3G6PAoS1V. 投稿日:2006/11/18(土) 00:01:48.85 ID:rnZwhZWE0
「なんてこった……」
ここ一週間実についていない。まるで何か恐ろしい悪霊にでも憑かれているか
のような、一年に一度あるかないかの厄日が一週間立て続けに起こっているか
のような、そんな感じだ。男は降りかかる悲しみに膝をついて耽るあまり、未掃除の
部屋の埃のように堆積していた苦難を巻き上げてしまい、巻き上がった靄のよ
うなそれを無視することも叶わず、悪夢のようなこの一週間についと思いを馳せた。
六日前、自家用車で出勤中の彼を玉突き事故が一気呵成に襲った。前方で起こ
った事故に対応しきれず、慌てて急停車したがそのせいで首をしたたかシート
に打ちつけ、続いて起こった前の車の炎上に驚き車外に飛びだしたはいいが、
自分の車にも燃え移り、一時間後にはすっかり廃車になっていた。保険には入
っていたものの、親の所有車だったため激しく親から叱責を受けることとなっ
た。加えて、鞭打ちの首の保護のせいでエリマキトカゲのように白いガードを
巻いて出社することになり、みなの良い笑いものとなって、おまけにその先週
同僚に誘われて買った宝くじを、一枚を残して誤ってゴミ箱に捨ててしまった。
その翌日はしばらく電車通勤になることから定期を買ったのだが、その日のう
ちに無くしてしまい、明くる日には自宅の鍵を無くし、その次の日は領収書の
詰まった財布を落とした。一昨日は会社は休みだったので友人らと出かけたが、
途中で逸れてしまい折角の休日の大半を一人寂しく過ごし、昨日は四十度近い
高熱に見舞われた。
そして今日、大晦日だというのに出社を命じられ、いまだ残る微熱の体を押し
て通勤し、それだけでも酷であるのにこの有り様である。何が憎くてこんな仕打ち
をするのか、新聞社などに勤めなければ良かったと、男は嘆かずにいられなかった。
「―っくしょんっ」
 大きなくしゃみが一度出る。鋭利な刃物のごとき冷えた風が男を切り裂く。
濡れた体にこの風はいささか厳しい。まだ多少熱っぽくもある。早く家に帰って
温まろうと、男は足早に歩き出した。


718 名前:運(3/5) ◆/YXK0zo7ak 投稿日:2006/11/18(土) 00:03:57.11 ID:rnZwhZWE0

「ふはあぁ」
 コタツに入り込んだ男は、気の抜けたような声とともに吐息を吐き出した。
 濡れた服を着替え、熱がぶり返すと不味いので風呂に入ることは止め、何より
もまずコタツで温まることに決めた。一人暮らしのこの部屋にそれ以外の暖房器
具はないため、男は暖をむさぼるようにコタツを引き寄せ、布団にくるまり、そ
の中で凍えた足をすり合わせた。
 テレビを点けたが特番ばかりであまり見る気はしなかった。偉大なコタツの力
によってぬくぬくとしてきた男は幾分余裕もでてきて、そのために心も大きくな
り、先刻起きた出来事を含めて今日一日を振り返った。しかし思い起こせば起こ
すほど気分は空ろになる一方で、しまいには大きな溜息を吐き出し強制的に中断
させてしまった。
 何だってこんなについていないんだろう。この一週間を顧みれば本当に呪われ
ているとしか思えないほどだ。が、誰にも怨まれるようなことをした覚えはない。
そもそも、日頃周囲の反感を買わないよう常に心がけて行動し、協調性を重んじ
てきた従順な羊のようなおれを一体誰が怨むというのだ。馬鹿げている、恨みだ
なんて。そんな非科学的なこと――いや、まてよ……、もしかして。
 男が思い返すは七日前の夜のことだ。この頭を抱え続けてきた一週間が始まる
丁度前日、男の部屋に一匹の蜘蛛が現れた。コンビニで調達してきた食料をコタ
ツの上に広げ、さあ夕飯を始めようとしたそのとき、一匹の小さな下がり蜘蛛が
男の前を横切った。
 下がり蜘蛛といえば、朝は吉兆と言われているが夜は不吉の印と言うではない
か。男は迷わずその蜘蛛をティッシュで包み取り、トイレに射出した。だが、思え
ばティッシュで包んだだけで殺してはいない。トイレに流しはしたが、あれで蜘
蛛は死んだだろうか? もしやまだ生き残っていて、それがために今こうしてお
れに不幸を与えているのか……。


719 名前:運(4/5) ◆/YXK0zo7ak 投稿日:2006/11/18(土) 00:04:43.80 ID:rnZwhZWE0
少し寒気を感じ、コタツの中で男は一段と身を縮こめた。耳に壁でもできてい
るのではないかと思われるほど、テレビの音は入ってきていなかった。
 もしそうだとしたら何と不条理なことだろうか。確かにおれは古くから伝わる
言い伝えをおろそかにしたかもしれない、それについては先人に深く謝罪しよう。
だが、ちょっと待って欲しい。それは少し早漏に過ぎないか。一回だけなら誤射かもしれない。それにおれは蜘
蛛に対して何ら敵意を抱いてはいない。その証拠に殺したかどうかは不明ではな
いか、だのに助けたといってもいいはずの蜘蛛に復讐されるなんぞおかしくはないか!
 男は何だかむしゃくしゃしてきて段々と顔つきが強張ってきた。そのせいかは
分からないが、体もぽかぽかと暖かくなり、また熱でもぶり返してしまったかと
ふと思いつつも急な眠気におぶさられ、意識は泥濘に足を取られ、抵抗する間も
なくあっけなく惰眠に屈した。

 翌日の朝、新年を男はコタツの中で迎えることとなった。まだ重い頭を振り振り、
明かぬ瞼をこすり、窓を窺えば外はもう随分と白んでいる。
 どうやらあのまま寝てしまっていたようだ。こんな形で新年を迎えようとは、
ろくに正月の準備をしていなかったし、何か特別なことをする予定も無かったわ
けだが、短い人生ではあるが過去最悪の年越しだ。何の感動も、何の感慨も覚え
ることなく、酔いつぶれたようにコタツに伏して過ごすことになろうとは、まだ
この運の悪さは続くのだろうか、年も明けたというのに。もういいだろう、蜘蛛よ。
点けっぱなしにしていたテレビを消し、男は欠伸をしようと大きく胸を反らせた。
そのときだった。男の目にあの光景が飛び込んだのは。
 視線の先には一匹の下がり蜘蛛がいた。前のと同じかどうかは不明だが、大きさ
は似ている。男はしげしげとそれを眺め、また俗信を思い浮かべた。
朝蜘蛛は吉兆……。
 先人の言葉は守るべきだ。同じ轍を踏んではならない。
 男は蜘蛛をそのままにして、玄関へと向かった。ポストには既に新聞が入っていた。
それを持ち帰り、再びコタツに入る。自社である朝○新聞をおおびらに広げ、記事
を流し見ていく。


720 名前:運(5/5) ◆/YXK0zo7ak 投稿日:2006/11/18(土) 00:05:32.52 ID:rnZwhZWE0

朝日が窓に差し込み、部屋は明るさを増していく。新聞を捲る紙と紙の擦れる
音だけが部屋をさまよう。白んだ室内の薄明かりにあって、男は渋いともにや
けたとも言いがたい表情を浮かべる。天からの啓示が如き良い夜明けだ、この
朝日のようにきっと我が社も今年一年大いに勇躍することだろう、元旦から縁
起がいいものだなあと、おおよそ男が考えていたのはそんなところだろう。
と、不意にあるところで瞳が止まった。男の視線を辿っていくと、そこには年末ジ
ャンボ宝くじの当選結果が記されていた。その二等の箇所で止まったまま、
男はぴくりとも動かない。
 幾分が経ったか、心臓麻痺でぽっくり逝ってしまったのかと思われるほど完全
に動作を見せなかった男が、突如新聞を投げ捨てて立ち上がり、鬼のような形相
で脱衣所に走り、昨日脱いだ服のポケットを探った。そこから財布を取り出し、
更にその中をあさり一枚の紙切れを取り出した。それは宝くじだった。
 隣人の迷惑も考えずにどたどたと走り、打ち捨てられていた新聞を大きく広げ
コタツの上に伸ばした。手にしているくじをその当選欄に横付けし、番号を確認する。
あってる、同じだ。視線は何度もくじと新聞を行き来する。あってる、間違いない、
疑いようはどこにもない。当たってる! 当たってるぞ! 二等、一千万だ!! やった! やったぞ!!
男は狂喜乱舞し、その場で小躍りした。それは隣人が壁を幾度打ち鳴らしても
止まることはなかった。もうそんな小さなことなどどうでもよかった。これほ
ど嬉しいことはない。一千万だなんて! ああ、これも全てこの蜘蛛のお陰だ、
と男は一本のか細い糸を垂らしている蜘蛛を捧げ持つように抱いた。

苦もあれば楽もありとは言うが、これが本当の蜘蛛あればラックもありだ、
なんて男が思ったかは知る由もない。
                         完



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