【 虚空に歌うのは風のために 】
◆D7Aqr.apsM




19 名前:NO.5虚空に歌うのは風のために (1/6) ◇D7Aqr.apsM 投稿日:06/10/29 22:35:56 ID:nOeZ2hNy
ラシェルが目を覚ますと、ベッドの天蓋に彫られた天使像と目があった。
光彩を持たない瞳は、どこも見ていないのに、すべてを見ているように感じられ
る。脚にまとわりついたシーツと、寝汗を吸い込んだ夜着が不快に感じられた。
──なぜ、おまえはここにいる?
半身をベッドの上に起こすと、窓ガラスに映るラシェルの影が問いかけた。
──皆は、まだ貧困にあえいでいるというのに。
影をにらみつけると、同じ強さで、ラシェルをにらみ返してきた。
シーツをそっとずらして、ベッドから降りる。
髪をばさりと振ってまとめると、窓は見ずに部屋を出て行った。

シックな真鍮の留め金を外して、ガラス戸を開く。天井から床までを、青銅色の
枠とガラスで覆われたサンルームは、夜の闇に沈んでいた。昼間に見れば、部屋
いっぱいに広がる緑が、夜半を回った今は、黒とグレーの濃淡に沈んでいる。
ラシェルは素足のまま、素焼きのタイルが敷き詰められたそこへ出ていった。
白く、柔らかい布で作られたワンピースタイプの夜着が、外から入ってくる風を
はらんで、かすかに揺れる。十四歳のまだあどけなさの残る体の線がうかんだ。
普段は結われている栗色の長い髪は、今は背中に流れるままになっていた。サン
ルームの窓を、空に向かってひらくと、風が強く流れ込んだ。――もっと大きく
開けられれば良いのに。ラシェルはこの小さな窓を開くたびに歯がゆく思った。
山の中腹に立つ高層マンションの最上階では、そんなことは望むべくもない。
このサンルーム自体も、この持ち主がかなりワガママを言ってつくった、と聞い
ていた。
眼下には街の夜景が広がっていた。
高層ビルの窓からもれる光が、星のように散らばっている。
この山手から下り、ひときわ明るいあたりが、セントラル。行政府や商業施設が
密集しているあたりだ。


20 名前:NO.5虚空に歌うのは風のために (2/6) ◇D7Aqr.apsM 投稿日:06/10/29 22:36:20 ID:nOeZ2hNy
そして、視線をまっすぐに伸ばしていくと、海で一旦、灯りが途絶え、そのすぐ
向こうにぽつり、ぽつりと、こちら側よりも明らかに灯りが少ない地域が見える
。半島だ。島と、大陸に続く半島。その二つの区域でこの国は成り立っている。
ラシェルは、あの半島に生まれ、十二歳になるまでそこで暮らしていた。今は、
こちら側。住民が羨望の意味も込めてアイランドと呼ぶ島で暮らしている。
この国の全てが、アイランドにあった。議会や立法府、一番大きな商業施設群、
そして富も。アイランドに住む人間と、半島側に住む人間は、考え方も生活も、
明らかに違っていた。昔からの生活を色濃く残し、貧しい半島側。そして、欧州
の影響を強く受けたアイランド。ラシェルの瞳は、半島の暗闇の中をさまよう。
ある場所を探して。いつも、その場所は見つからなかった。昼間でも見えないの
だ。まして夜に見つかるはずもない。また、考えてしまっている。胸の前で拳を
固く握ると、ゆっくりと、風の音に紛らすようにため息をついた。

古びた、石造りの尖塔をもつ教会と、木造の宿舎がその孤児院の全てだった。
半島の中でもあまり治安の良くない場所で、周囲の雑居ビルに押しつぶされそう
になりながら、その孤児院はあった。狭く、日の差さない庭で遊ぶ子供達の服装
は、清潔に保たれてはいるものの、粗末なものばかりに見える。庭に備え付けら
れた遊具もなく、遊びに使われているのは廃タイヤやドラム缶ばかりだ。
庭で遊ぶ声を遠く、かすかに聞きながら、ラシェルは園長の部屋にいた。
布の貼られた古びた椅子に、向かい合って園長と、大人が二人、座っている。
ラシェルは一人、部屋の入り口に立ちつくしていた。
「この子がラシェルです。ラシェル、こちらが、ランドールさん。ご挨拶を」
他のシスターと同じく、黒い服に身を包んだ園長が、静かに紹介する。
いわれるままに、挨拶をし、お辞儀をしたラシェルは、どうしてここへ呼ばれた
のかわからずにいた。ランドールと紹介された二人は、品の良さそうな中年の男
女だった。男性はダークスーツを、女性はグレーのワンピースを着ていた。


21 名前:NO.5虚空に歌うのは風のために (3/6) ◇D7Aqr.apsM 投稿日:06/10/29 22:36:40 ID:nOeZ2hNy
「ラシェル。実は――」
「園長、私から話をさせていただいてもいいでしょうか?──カールも、それで
いい?」女性が穏やかに割ってはいった。カールと呼ばれたスーツ姿の男性は、
小さく、しかしはっきりと頷いた。園長はじっとラシェルを見つめたまま、「わ
かりました」とだけ答えた。
「落ち着いて聞いて欲しいのだけど――これは、そう、この部屋にいる全員にと
って、とても大事な話なの」クリス、と名乗った女性は、ラシェルの目をじっと
見つめて、話し始めた。

「あなたに、選んで欲しいの。ここから出て私たちと暮らすか、ここに残るか。
来てくれるなら、多分、あなたに十分以上のなチャンスをあげられると思う」
ただし――とクリスは続けた。「あなたは、この部屋からそのまま、出て行かな
ければならないわ。荷物は何も持って行けない。誰にも別れを告げることはでき
ない。そして──そして、ここには二度と帰ってくる事はできない。それができ
るのなら、来て欲しい」胸にかけられた、粗末な十字架のペンダントをラシェル
は無意識に握りしめた。クリスはじっとラシェルを見つめている。
「ランドールさん、やはり、これはあまりにも……辛い選択です」
園長が口を開いた。「この子は生まれてから10年間、ここで育ってきたのです。
他の子供達と一緒に」
「今は理由は言えません。でも、私たちが探しているのは、この条件をクリアで
きる子供なのです」クリスはゆっくりと園長に告げ、ラシェルに向き直った。
「もし、返事がイエスなら、この服に着替えてきて。となりの部屋をあけてもら
っているわ。ノーなら、そのまま服はあげる。この話は、ちょっと頭のおかしい
大人とあった、くらいに思って忘れて」手渡された紙袋を見ると、白いワンピー
スと、靴が見えた。紙袋をもって、ラシェルはとなりの部屋に続くドアへ向かっ
た。ドアノブを握り、振り返る。


22 名前:NO.5 虚空に歌うのは風のために (4/6) ◇D7Aqr.apsM 投稿日:06/10/29 22:37:11 ID:nOeZ2hNy
「あの。私にもお願いが――条件が、あります」
「なに?」
「私が、この服を着て戻ってきたら、ここに、この施設に何かの寄付を」
クリスはにっこりと笑った。

夜着を汚さないように気をつけながら、跪く。十字架を握ろうと無意識に手が胸
元へ伸び、止まる。
――もう、二年もたったのに。
ラシェルはあの時、園長の部屋へ戻ると、最後に首飾りを外し園長に渡していた
。もう、祈るためにすがるものすらない。ここで暮らすようになって、全てが変
わった。孤児院から引き取られる子供──特にラシェルのような年齢の者──
は、通常労働力として期待される事が多かった。しかし、ランドール夫妻には子
供はなく、ラシェルは一人娘として、そして共同生活をするパートナーとして扱
われた。学校へ通うだけでなく、テーブルマナー、ダンス、ピアノから体術、
社会情勢分析にいたるまで、様々な習い事もさせていた。しかも、習い事のほ
とんどが先生と一対一の個人授業だ。家事もしなくはないが、それよりも勉強と
一日に一回、新聞六紙の主要な記事の要約をカールとクリスに報告する事の
方が優先され、それ以外に義務らしい義務はなかった。

目を閉じ、頭を垂れる。短く、祈りの言葉をつぶやく。最後の言葉をつぶやき、
ゆっくりと息をはき出した。カタン、というかすかな音が聞こえた。あわてて立
ち上がる。
「ごめん。邪魔したね」
クリスがサンルームの入り口に立っていた。濃いえんじ色のパジャマを着ている
。手にもったコーヒーカップから、かすかに湯気が上がっているのが見えた。
「いえ。……すみませんでした」


23 名前:NO.5 虚空に歌うのは風のために (5/6) ◇D7Aqr.apsM 投稿日:06/10/29 22:37:30 ID:nOeZ2hNy
「何て言ったらいいかな。きみは……約束にとらわれすぎだよ」
「でも」
「ここに慣れようとして、昔を忘れようとしてくれているのはわかるけれど。寂
しい、よね?それは当然だと思うよ。無理はしない方がいい。寂しいのは認めて
しまった方が良いよ。その上で、考えた方がいい」
サンルームの木々の間を、ゆっくりと歩き、クリスはラシェルに歩み寄った。
窓の外からのあかりに浮かび上がる。
「寂しくは、ないと思います。――でも」
うつむいたまま、ラシェルはクリスに向き直った。
「なぜかわからないけれど、泣いてしまいそうになる自分がいます。夜に、やっ
てくるんです。捨てたものと一緒にやってくる。景色とか、風とか、香りとか、
音とか……人とか」
ひゅっ、とラシェルの喉が鳴った。
「でも、それに負けるわけにはいかないんです。負けたら、本当に二度と立ち上
がれなくなりそうなんです。だから、負けられないんです。わたしは、選んだの
だから。辛いものを連れてやってくる自分に、弱い自分の影に負けてはいけない
んです。そのために、ここにいるのだから。だから闘います。選んだ自分のため
に、失ったもののために、未来のために、手に入れたもののために」
ラシェルの拳は白くなるほど強く握りしめられている。
クリスは少し離れた所で立ち止まった。
「私たちのワガママを押しつけて、ごめんね。本当に、申し訳ないと思ってる」
クリスは少し離れたところで立ち止まった。「でも……わかって欲しいの。この
国で、これから生きていくのであれば、きっと必要になる。自分で考えて、決め
る力が。でも、それは誰でもがもてる力じゃあないの。そういう人間が一人でも
多くいないと国は──わたしたちの居る場所は──簡単になくなるわ。だから
ラシェルは小さく頷いた。


24 名前:NO.5 虚空に歌うのは風のために (6/6完) ◇D7Aqr.apsM 投稿日:06/10/29 22:37:55 ID:nOeZ2hNy
政変。しかも、かなりきな臭いそれが近づいている、ということは、社会分析の
授業の時に、家庭教師から伝えられていた。おそらく、あと数年でこの国は大陸
に飲み込まれる。開かれたままの窓から、ひときわ強く風が吹き込んだ。サンル
ームの中を、葉擦れの音が満たしていく。ラシェルとクリスの夜着が風にあおら
れた。
「ね、いつもここで歌っているのは、なんていう歌なの?」
「聞こえていたんですか?」
ごめんね、といって、クリスは小さく舌を出した。
「聞き耳立てていた訳じゃあないんだけれど……。サンルームと私たちの部屋は
つながっているから」
指さす先を見ると、小さな換気用のダクトが見えた。ラシェルはがっくりと肩を
落とした。それなりに気を使っていたつもりだったのだ。
「すみませんでした。気がつかなくて……夜中に、うるさかったですよね」
「そんなこと無いよ? 実際、今も彼は待っていると思うしね。ところで、あれ
って何ていう歌なの?わたしもカールも、結構気に入ってるのよ」
「施設で、年下の兄弟達を眠らせるときに歌っていた歌なんです。題名は
知りません。たぶんずっと歌いつがれてきたものだと思います」
ラシェルは窓へ向き直って、海の向こう側の街を見つめる。いくつもの、数え切
れない明かりが、暗い闇の中に灯っている。
「無理にとは言わないけれど。よかったら、聴かせてくれる?」
ラシェルが頷くと、クリスは近くの籐で編まれた椅子に座った。

手のひらで、窓の脇のガラスにふれる。風が強化ガラスをふるわせる振動が、
ラシェルの手に伝わった。すうっ、と体に風を取り込むようにして息を
すいこみ、目を閉じる。
窓の向こうの空に向けて、ゆっくりとラシェルは歌い始めた。



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