【 独りきりの卒業の日 】
◆WGnaka/o0o
858 名前: ◆WGnaka/o0o :2006/04/11(火) 22:31:05.97 ID:3eEGt33f0
−独りきりの卒業の日−
冬の気配がまだ残る三月半ば。世界は一つの区切りを迎え始めていた。
始まりがあれば終わりがあるように、それは一年に一度訪れる必然的な終焉だった。
冬の雪が降り止み、春の桜が咲くのと同じくらいの当たり前なこと。
刻まれる時間は止まることなく、今も尚動き続けている。
私だけを取り残して。
シャワーのヘッドノズルから熱いと感じる温水が噴き出す。
狭い空間は湯気によってすぐに曇り、白を貴重としたこの世界を更に白く濁らせた。
長い髪の毛を伝い落ち、裸体を流れる温水が排水溝に呑まれて行く。
薄緑色の風呂椅子に座りながらその光景を眺める。
体を打ち付ける温水を浴び、思い耽るように小さな渦の出来た排水溝を眺め続けた。
流れて消える温水を羨ましくとさえ思い、私は両手で顔を覆って震える。
涙はもう出ないと思っていたのに。
長年付き添ってきた幾つもの傷痕と痣がヒリヒリと痛んだ。
859 名前: ◆WGnaka/o0o :2006/04/11(火) 22:31:58.99 ID:3eEGt33f0
私は嫌いだった。この世の中や両親、そして自分自身さえも。
出来ればもう消えてしまいたいとさえ思っていた。全てに見切りをつけてしまったから。
そう思うようになってしまったのは、今からおよそ三年前からだ。
当時の私は至って普通の中学生で、この先は順風満帆の未来があるとばかり思っていた。
けれど、そんな私の明るい未来は音を立てて崩れ去る。中学校卒業式の翌日だった。
父親が勤めていた会社が経営難で倒産し、それがきっかけで父親はアルコール依存症になった。
最初はまだ我慢できるほどのものだったけど、次第にエスカレートする父親の暴力。
その矛先は私や母親に留まらず、飼っていた犬にまで及んだ。
毎日繰り返される夫婦喧嘩。母親がパートに出かければ、今度は無力な私に牙を向けた。
きっと元の家族生活に戻ると思い、春休みの間ずっと耐え忍んだ。
そして、今までと変わり果ててしまった父親を嫌いになった。
それから私の高校入学式の日に、母親は私を置いて家を出て行ってしまう。
真新しい制服姿を見せられないまま、忽然と居なくなってしまった。
この家の中で心の支えであった母親が居なくなったことはショックだった。
春の暖かい陽光が差し込むリビングで、私は溜まっていたものを吐き出すように泣き喚いた。
もう二度と帰ってこないだろうと判っていたから。
その日から私を置き去りにして逃げた母親を嫌いになった。
母親が居なくなっても相変わらず父親の暴力は納まらず、日に日に飲酒の量だけが増えるばかり。
そんな生活が一年続いたある日、私は寝ている父親をカッターナイフで襲おうとしたことがあった。
これ以上辛い思いをするくらいなら、いっそのこと殺してしまったほうが楽になると思ったから。
しかし、そんな私の計画も呆気なく終わる。
酔い潰れていたはずの父親が起き上がり、持っていたカッターナイフを強引に取り上げられてしまう。
それからのことは思い出したくも無い。今も心に深い傷を残す出来事だった。
860 名前: ◆WGnaka/o0o :2006/04/11(火) 22:32:45.73 ID:3eEGt33f0
奪われたカッターナイフで着ていた制服を刻まれ、そのまま私は肉親である父親に強姦された。
そのときに受けた言いようの無い恐怖感と始めて感じる鋭い痛みは、脆くなっていた精神を一気に蝕んだ。
私はその日の深夜に、事の発端となったカッターナイフで手首を切った。
殺せないのなら死のうと思っての行動だったけど、致死量には至らずじまいで一命を取り留める。
その一件以来、私は更に父親を憎むようになり、男性恐怖症にまでなってしまった。
それよりもっとも厄介なのは、リストカット癖がついてしまったことだろう。
私は次の日から学校を登校拒否し、なるべく家に居ないようにアルバイトをし始めた。
アルコール中毒だった父親の稼ぎが殆ど無い状況では、私が仕事をして生きていく糧を作るしかなかった。
もう誰にも頼ることは出来ない。せめて母親が居てくれたのなら、まだ希望は残っていたはずなのに。
他人の幸せそうな顔を見るたび泣きそうになる。仲睦まじい家族を見るたび羨ましくなる。
次第に私はこの理不尽すぎる世界を嫌いになった。それと同時に、私は自分自身も嫌いになっていった。
世界に切り離されたように、ずっと私は闇の中を彷徨い続けている。
絶望という螺旋階段をぐるぐると昇るだけだった。
思考を停止させるように、天井の換気扇から冷たい雫が私の肩に落ちた。
いったいどれくらい時間が経ったのだろう。すっかり体は打ち付ける温水で温まっていた。
本当に運命というものがあるのなら、もしかしたらこれが運命なのだろう。
父親は三日前に心不全で亡くなった。それは急な出来事で、未だに信じられない。
すっきりした気持ちにでもなるかと思ったけど、あとに残ったのは寂しさだけだった。
憎んでいても嫌いであってもやっぱり親は親。例えどうであろうと家族なのだ。
もし、あのとき父親を殺していたら――きっと後悔していただろう。
もし、あのとき私が死んでいたら――父親は悲しんでくれただろうか。
一度壊れてしまった歯車は、もう修復出来ないと知っていた。
過去に戻れないと判っているから、未来に希望するしかなかった。
けれど、そんな希望さえもうどこにも見当たらない。生きて苦しむのなら死んで楽になろうと思っていた。
足枷ばかり付けられた心は、何も見えない闇の中に塞ぎ込まれている。
861 名前: ◆WGnaka/o0o :2006/04/11(火) 22:33:40.86 ID:3eEGt33f0
左腕に残された幾つもの傷痕は生きてきた証と後悔の数。
だから私は誕生日の今日、二度と目覚めないように終止符を打つ。
自らの手で付けた左手首の傷痕の上へ目掛けて、持ち込んだカッターナイフの刃を滑らした。
唐突に鋭い痛みが襲い、生暖かいものが腕を伝い流れて太股に斑点を作った。
流水に混じって薄まるピンクの液体は排水溝に呑み込まれ消えてしまう。
私は浴槽の縁に左腕を乗っけて、もう一度同じ場所をカッターナイフで引き切った。
躊躇は必要ない。躊躇ったらそこで希望が生まれてしまうから。
半端の無い激痛を伴って傷は更に深くなり、赤黒い液体が勢いを増して溢れ出てくる。
水に揺らめく浴槽の表面に、綺麗な紅い薔薇の模様が浮かび上がった。
やがて薔薇の花は水中に溶け消え、またその上に真新しい深紅の花を咲かせる。
こんなに素敵な花を見たのは始めてで、私は目の前で揺らめく花をしばらく眺めていた。
やがて疲れた体を浴槽の縁に預け、重くなった瞼をそっと閉じる。
シャワーの音がやけにハッキリと耳に届き、降り続く温水が冷たくなる体をいつまでも温めていた。
手首から止め処なく流れ出る鮮血は、私を永遠の眠りへと誘う。
後悔なんてものは、すでに無かった。したくても出来ないだろうから丁度良い。
手首の痛みはもう麻痺しているのか感じなかった。
意識が無くなっていくときの心地良い気分に浸りながら、私は微笑んで別れを告げる。
この濁った世界にさようならを。
そして、18歳になった私と同級生たち『卒業おめでとう』。
どこか遠くで鐘の音が響いている。
それは一日の終わりと始まりを告げるものだった。
了