【 Tragedy Tuesday 】
◆Awb6SrK3w6
※投稿締切時間外により投票選考外です。




82 名前: ◆Awb6SrK3w6 投稿日:2006/10/10(火) 04:08:07.75 ID:JxM/QW0C0
 正確な日時は、今でもはっきりと思い出せる。1929年十月二十四日。
株式取引が始まってから一時間と二十五分の事だった。
 金融市場の中心が、ロンドンからニューヨークに移ってから、
随分と慌ただしくなった開始直後の売買もようやく収まり、いつもの通りコーヒーを飲んで一息つく頃。
ゼネラルモーターズの株が80セントばかり下がったのが、全てのケチのつけ始めだった。
 最初こそ、市場にいる連中の顔は穏やかなもので、
「まいったもんだな、どんな影響が出てくるやら」
「天下のゼネラルモーターズだ。どうせ、すぐに持ち直すだろ?」
とまあ実にゆるゆるとした会話があちらこちらで交わされていたくらいだったのだが。
 これが世界を奈落の底へと引き落とす、大恐慌の始まりの合図となろうとは、この時は誰も予想できなかったに違いあるまい。
ともかく、まだこの時の自分たちには熱いコーヒーをすすりながら、株価の描く右肩下がりの直線を、
じっと眺めるくらいの余裕はあったのだ。
 
 だが、そんな平穏も長くは続かなかった。
投資家達の淡い予想を余所にして、市場全体で売りは徐々に膨らんでいく。
それに伴って、周囲の投資家連中の顔もまた、秒針が進んでゆく毎に徐々に青ざめてゆくのだった。
そして、時計の針が十一時を指す頃には、狂乱する人間達の地獄絵図が、市場中に描かれる羽目になったのである。
「売るぞ! コカコーラ株を500株だ!」
「いったい、どうなっていやがるんだ。今日だけで一体どれだけ損することになるんだ」
「ダメだ……もう終わりだ。畜生め!」
「全てだ。全てが紙切れになっちまった」
 受け付ける市場の従業員共が締めるタイを掴み、食ってかからん勢いで罵詈雑言を飛ばす男がいれば、
魂が抜けてしまったかの様にして、言葉にならぬ言葉を鬱々と繰り返す男もいた。
 この日だけで1289万4650株という途方もない数の株が売りに出され、
この日だけで11人が摩天楼からその儚い命を散らすことになった。
 これが、暗黒の木曜日と呼ばれた、一日の顛末である。
 かくいう自分も、大損喰らった投資家の一人であった。
この日だけで今まで築いてきた財産が全て吹っ飛んでいたのである。
「大丈夫さ。大丈夫に決まっている。株価はすぐに元通りになるし、ここで売った連中が後悔するような値をつけるに決まっている」
と、当てにならない楽観論を呟いて、口に含んだコーヒーのぬるさが舌にこびりついて離れなかった。

83 名前: ◆Awb6SrK3w6 投稿日:2006/10/10(火) 04:08:43.12 ID:JxM/QW0C0
 だが、である。火曜日には、木曜日以上の大暴落が起きた。
これで俺の財産は、無一文からとんでもない額の赤字となってしまった。
楽観論は呆気なく霧散して、空虚な物になったわけである。
 絶体絶命、四面楚歌。磔刑に処せられるキリストの心境もおそらく、この時の自分と似たような物だったに違いない。
 かくして、莫大な追証を払うこともできなくなった俺は、この世の全てに絶望しきって、
ぶらり入ったビルの屋上へとやってきたわけだった。

 既に夜となっていた。冷たい秋風が肌を撫でる。
投資家達の喧噪から離れた、久々のがらりとした空間に、思わず俺は深呼吸をしていた。
涼風は肺腑に満ちてゆく。その感覚に満足を覚え、背伸びをして空を見上げた。
 摩天楼の光が邪魔をして、星の光は随分と見にくい物になっていた。
だが。美しい。人工の光をうっすらと湛えた雲が漂い、滲んだ月が見える、あまり見栄えのしない空でさえ、
死を前にしたこの身には、感嘆を漏らすほどの絶景に映っていた。
 思えば。こうしてニューヨークの空を眺めるのは、初めての事かも知れない。
辺鄙な西部の田舎から出てきてからこの方、株価と企業の動向しか見ていなかった自分である。
 自分の世界が随分と偏狭になっていた事に、気づけば俺は苦笑していた。
「空か……」
 多重債務者として莫大な額の借金を抱え、路頭に迷い惨めな一生を送る。
そんな人生は真っ平御免であった。
 それよりかは、この美しい空に身を躍らせ、爽快な最期を遂げるのが幾分かはマシな事ではないか?
 そう自分に言い聞かせ、頬を二三度打って気合いを入れた。
「よし」
 何がよいのかは分からない。どこからともなく出た呟きを、抑えることはできなかった。
決意を決め、足を踏み出す。
そして、落下防止のためにつけられた、フェンスを乗り越えようとした時だった。
「あんた、死ぬのかい?」
 声が背中に響いていた。思わず後ろを振り返る。
ぴしっとしたスーツを纏い、ワインの瓶とグラスを手に持って、秋風にブロンドを靡かせる伊達男がそこにいた。

84 名前:Tragedy Tuesday 3/5 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:2006/10/10(火) 04:09:21.90 ID:JxM/QW0C0
「ああ、その通りだが」
「ちょっと待ってくれないかな?」
 男はニヤニヤ笑ってこちらへと近づいてくる。
「止めるつもりか? それだったらやめてくれ。俺はもう」
「違う違う」
 大袈裟に手を振って、男は自分の言葉を否定した。
「僕が先にこの屋上にいたんだ。だから、死ぬのは僕のが先だ」
「死ぬのに順番待ちをしろというのか?」
「ま、そういうことだね」
 肩を竦ませて、今度は自分の皮肉を肯定する。
芝居がかったその動きは、まるで舞台役者のようだった。
「君は投資家なのかな?」
「……まあな」
「そうか! 実を言うと、僕もウォール街で株取引をやっていたんだ。今日の今日までね」
 全財産がこの一週間で消えて無くなったのは、この男も変わらないのであろうに。
自棄を起こしているのだろう。エラく嬉しそうにして、男は口元を弛ませた。

 瓶の中にあるワインは音を立ててグラスへと注がれてゆく。
「こんな屋外で酒を飲むのは久しぶりなんだ。禁酒法なんてつまらない法律、一体誰が考えたんだろうね」
「連邦議会だろう」
「ハハハ、そりゃそうだ」
 真っ当な答を返しただけなのに、呵々と大笑して、男はグラスを空にした。
「酒は人類と共に歩んできた。歴史の影には常に酒があった。それなのに、今のアメリカと来たら。
酒と人間を切り離していったいどうするっていうんだろうね。酒に逃げるというのは、最も有効な逃避の手段なのに。
それを禁じてしまっては、人間は追い詰められるだけになってしまう。だから、投資家達もこんな所から飛び降りるしかない」
「……成る程」
 酔漢の理論に思わず頷く。
「どうせ最期だからね。やっぱり酒は良い。君も飲まないかい?」
「いや、いい」
 酔うつもりはなかったので、男の勧めをあっさりと断る。だらだらとした会話が、夜風に流れていった。

85 名前:Tragedy Tuesday 4/5 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:2006/10/10(火) 04:10:03.68 ID:JxM/QW0C0
 そうこうして一時間くらい経った頃だろうか。
「じゃ、僕は先に行かせてもらうよ。この話の続きは向こうでやろう」
 とうとう、男は死ぬ気になったらしい。何杯目となったか分からないワインを飲み干した。
「君も一杯やってから行くといい。ここに置いておくから、後から持ってきてくれよ」
 間もなく死ぬというのになんとも軽快に男は舌を舞わせていた。
男の頬を紅く染める、酒が舌の動きを良くしているのだろうか。
 グラスと瓶を床に置き、軽い足取りでフェンスまで辿り着くと、あっさりとフェンスを男は乗り越えた。
 そして一声。
「それじゃ、後で!」
 男に躊躇いは微塵も無かった。
こちらに向けて手を振ると、ふわりと虚空へ身を躍らせて、瞬時にその姿は消えた。

 さて、残ったのはワインとグラスである。
男の勧め通り、酒を飲もうという気にはちっともならない自分がいた。
 酒を飲んでは、死ぬどころではない程に酔ってしまうのではないかという不安が胸中に漂っていたのである。
さっさと男の後を追った方が、良いというのが自分の出した結論だった。
 先ほど、男の誘いを断ったのもこういう考えが漠然としてあったからである。
 問題はゲイの心中か? と現場を見た人間が思うくらいであるが、
所詮自分の死んだ後のことである。心配などするだけ面倒なことであった。
「持って行けと言ってはいたが……」
 フェンスを乗り越えるのに、瓶とグラスを片手に持つのは何かと不便である。
男は向こうで嘆くであろうが、それもまた仕方のないことであろう。
 そう思い、俺は佇むワインとグラスを後にして、一人フェンスを越えた。

86 名前:Tragedy Tuesday 5/5 ◆Awb6SrK3w6 投稿日:2006/10/10(火) 04:11:37.37 ID:JxM/QW0C0
 フェンスを越えた視界、そこには宝石を一面に散りばめた夜景が広がっていた。
ここが足下の確かな場所であるならば、その美しさの虜となるのだろう。
だが、その美しさは目に入らなかった。今感じるのはただ、
「……高いな」
 地上までの距離に対する恐怖感だけでしかない。先ほどの男は、良くもまああんなに勢い良く飛んだものだ。
 そう思ったときだった。
 摩天楼に特有のビル風が、ごうと吹いて、体を揺らす。
バランスは崩れ、足はもつれて、フェンスを握りしめる手の平に汗が滲んでいた。
「……なに、今すぐ死ぬ事もない」
 そう呟く自分の声が震えていた。

 フェンスの際から一時撤退した自分は、再びワインとグラスと向き合うことになっていた。
「飲もう」
 冷えた肝を暖めるには、アルコールが一番だったはずだ。そうでもしないと、落ち着いて再びフェンスを越えることなど、できそうにない。
「久しぶりだな、酒も」
 禁酒法施行以来、すっかり口にしなくなったアルコールである。酔いがどのような感覚だったかでさえ、うっすらとしか覚えていない。
 思い出すには、さっさと飲んでしまうのが一番だろう。そう思い、ワインをグラスに少しだけ注ぎ、一気に口の中へと流し込んだ。

「美味い」
 芳香が口内に満たされた。ワインは喉を通って胃を暖め、そこから熱は体全体へと行き渡ってゆく。
「ああ、思い出したぞ」
 そうだった。これが酔いという物だった。株券のお供にしていたコーヒーでは、味わえない懐かしい感覚が一気に蘇る。
 いつの間にやらグラスには、再びワインが満たされていた。それを再び飲み干して。
ビルの屋上の上には、酒へと溺れてゆく自分がいるだけだった。
 死ぬのは、もうどうでも良かった。今はただこの酒のもたらす酔いに浸っていたい。
ビルの下で、見るに耐えない死体をぶちまけるよりかは、まだ、この滲んだ月を肴に酒を飲むのがマシだった。
「悪いな。ワイン、俺だけで独り占めにさせてもらう」
 今頃は無惨な死体となって居るであろう男に詫びて、俺は酔いのもたらす温い感覚へと落ちていった。

 こうして、俺は大恐慌の時代を地を這うようにして生きることになったわけだ。



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