【 月の子供 】
ID:HCRzaLgb0




77 名前:No.21 月の子供 1/6 □HCRzaLgb0 投稿日:06/09/17 23:05:37 ID:nkI7IBDo
 あと二時間で月が落ちてくる。
 月面基地の燃料工場で起きた大規模爆発事故は月そのものの軌道を変えてしまった。
 緊急ニュースが流れたのが四時間前、誰もが大慌てで宇宙港へ向かい地球から脱出していく。当面の住居は火星になるだろうとニュースキャスターは告げていた。
 過疎化が進み存在価値を失いかけていた地球は今日、その長い歴史に幕を閉じることになった。
 先程、携帯端末から流れてきた放送によると住民の九十九パーセントは脱出し、残る一パーセントのためにギリギリまで最後の船の出立を遅らせるそうだ。
 誰も彼もが地球を見捨てていく。誰も彼もに地球は見捨てられていく。
 私は人気の無い道を歩いている、港とは逆の方向へ。
 地球と運命を供にしようと考えた数少ない人間が、私だ。最期の時をどんな場所で過そうか考えながら私はさまよっていた。
 道の向こうから一匹の犬が歩いてくる。
 私は首を傾げた。飼い犬なら飼い主と供にとうに脱出しているだろう。野良犬なんていう代物はとうに絶滅した。
 犬は私の目の前で立ち止まった。
 腰まである長い黒髪を押さえながらしゃがみ込み犬の目を覗き込みながら言う。
「どうしたの、お前。迷子になったの?」
 綺麗な目をした犬だった。黒曜石を埋め込んだような瞳に艶のある灰色の毛皮、堂々たる体躯。こんな犬を飼ってみるのも良かったかもしれない。
「そっちこそ、逃げ遅れたのかい星立ハイスクールの制服を着たお嬢さん。今ならまだ船に間に合うだろう」
 からかうような口調で犬が言った。
 口元を手で押さえ少しばかりの驚きを表現し、私は言う。
「最近の犬は喋るのね」
 私達の間に一陣の風が吹いた、ような気がした。
「えーと、一つ目、普通犬は喋らない。いくら遺伝子工学が発達しても喋る犬を作ろうなんて馬鹿はいなかった、と言う話だな。で二つ目、俺は犬じゃない狼だしハティって名前もある」
 頭痛でもこらえているような顔で犬は告げ、大仰な仕草で溜息をついた。
 そんな犬を見下ろしながら無表情に言い返す。
「馬鹿ね、冗談よ」
 一瞬だけぽかんとした間抜けな表情をし、すぐにげらげらと――文字通り犬が吼えるみたいに笑う。
「気に入ったよお嬢さん、今生の終わりにあんたに会えて俺はラッキーだったよ」
「私も、喋る犬に出会えるとは思わなかったわ。貴方はこれから何処へ行くの?」
 犬じゃない、と言いながらハティは疲れたように首を振る。その仕草は大きな体に似合わず愛らしいものだった。

78 名前:No.21 月の子供 2/6 □HCRzaLgb0 投稿日:06/09/17 23:05:55 ID:nkI7IBDo
「決めていないな。まぁ、ぶらぶらするよ」
「なら、私と来る? 月が綺麗に見える場所を知っているの」
 私はすっかりこの奇妙な犬が気に入っていた、最期の数時間を過す相手に選ぶくらい。
 ハティは少しだけ迷ってから頷いた。

 私達は郊外にある遊園地へと向かった。遊園地と言っても既に閉園して久しく取り壊しを待つだけの場所だった。
 門を乗り越え中へと入り込む、けばけばしい装飾に満ちた墓地のような空間を私達は歩く。 そして園の中央に位置する噴水広場の適当なベンチの上に腰を下ろした。
 枯れた噴水の影が十字の影を地面に落とす。私達にはお似合いだ。
 何も言わずハティは静かに月を見ていた。横目でチラリと彼を眺め、私も月を見上げる。
 惚れ惚れするような満月、心なしか普段より大きい。いや当たり前か近づいて来ているんだから。
「綺麗だ」ハティが呟いた。月の事を言っているのだろう。
「綺麗ね。でも私は嫌い」
 興味深そうにハティが私を見る。私は唇を歪め皮肉気に笑う。
「人が月に降り立ったのが宇宙開発の歴史は始まり。それは人が地球を棄てていく歴史の始まり。そして遂に今日、地球は棄てられる」
 ハティは聞いている。口を挟まず静かに聞いている。それが私には嬉しい、世迷いごとにも等しい私の言葉を受け止めてくれる事が。
「私は月で生まれたわ。そして月に棄てられ地球辿りつき、その地球も棄てられようとしている。もう私に行く所は無いわ」
 静かにハティが口を開く。説得しているつもりなのか鷹揚が少なく宥める様な声で。
「月と地球以外にも居住可能な惑星は沢山あるだろう。何か酷い思い入れがあるのかもしれないが何もお嬢ちゃんが一緒に死んでやる事は無いだろう」
 何て模範的な説得だろう。心配げな表情で私を見ているハティの人の良さが少し可笑しい。
「ハティ、私は幾つに見える?」
「……十六、七か?」
「外れ、八百二十五歳。私は宇宙開発黎明期に起きた月と地球の戦争の産物――」
 台詞の続きを、ハティは奪った。
「『月の子供計画』優れた兵士を人工的に作り出そうとしたプロジェクト。製造は成功した。不老であり先天的に優れた肉体、精神構造を持ち、しかも製作者に従順」
 一度言葉を切り、鋭い眼差しで私を見た。
「しかし実戦配備される前に和解が成立し戦争は終了。月の子供は全員処分――抹殺された」

79 名前:No.21 月の子供 3/6 □HCRzaLgb0 投稿日:06/09/17 23:06:11 ID:nkI7IBDo
 私は余裕に満ちた表情を浮かべ教師が生徒にするようにハティを撫でた。
「よく知ってるのね。大体その通り、でも、一人だけ生き残りがいた。それが私」
 不意に――ハティの瞳が剣呑な光を帯びる。
 一発の弾丸の如き突進。
 私は条件反射レベルにまで高めらた速度で回避する。
 何のつもりか、と目で問いただす。
 ハティは私を見ながらもその向こうにある遠いものを見るような目をしていた。

「今のを避ける、か、どうやら本物みたいだな。まさかこんなチャンスが巡って来るとは思わなかったよお嬢さん」
 高揚と虚無がない交ぜになった苦悩にも近いうめき声が響く。
「俺の名前はハティ、その意味する所は『月食い』お前達に対抗すべく造りだされた獣――今、俺は俺の役割を執行する」
 タンッ、と地面を蹴る音がして、ハティの姿が消える。
 私の周囲を取り囲むようにハティが地面を蹴る音がする。どんな手品を使っているのかそれは上からも聞こえた。ハティという檻に閉じ込められているような気分だった。
 ハティがどう動いているのか私には殆ど分からない。どう足掻こうが純粋な肉体能力では人間が動物にかなうわけが無い。私はカウンターを狙うしか無かった。
 拳を握り、静かに立つ。
 微動だにせず待ち受ける。
 タンッ、タンッ、タンッ、タンッ、タンッ、タッ――
 音が変わった。
 即座に視線を向ける。
 飛び掛るハティ、ナイフより鋭く光る牙、射線上には私の喉――
――速い、だが所詮は獣。
 私は拳を突き出す。迫り来るハティの口の中へ。
 勝利と驚愕の間で揺れるハティの目。
 拳が真っ赤な口内へと飲み込まれていく――生温い感触と痛み。
 拳が喉の奥に突き当たった瞬間、私は腕を振りハティを地面へと叩き付けた。
 食い千切られるかと思われるほどの強さで口が閉まり、次の瞬間に弛緩する。私は腕を引き抜いた。
 唾液と二人分の血液でドロドロになっている。かなり深い傷を負ってしまったが命に別状は無い。

80 名前:No.21 月の子供 4/6 □HCRzaLgb0 投稿日:06/09/17 23:06:27 ID:nkI7IBDo
 一方のハティはというと喉に溜まった自身の血で溺れながら悶えている。私はハティを抱き上げ、言う。
「口、閉じないでね」
 ハティの口の中に顔を突っ込むようにして彼の喉から血を吸い上げる。
 危険だというのは分かっていた。けれど、どうしてもハティを殺す気にはならなかった。私の脳裏を過るのは死んでいった月の子供達。
 ハティは私と、同じだ。こみ上げる、喜び。私は独りじゃ、無い。
 人工呼吸のようにそれを何度か繰り返しているうちに、ハティはごほっ、という大きなセキと共に大量の血を吐き出した。
 むせてはいるが溺死の危機はさったようだ。私はハティをベンチの上に下ろし、私もその横に座る。
「ああ、私のファーストキスが狼に。もうお嫁にもいけないのね」
 溜息を吐き言うと、ハティがうめき声交じりに言い返してきた。
「お嬢ちゃん、後一時間もすりゃ死んでしまうのにそんな事を気にしてどうするんだい」
 にやり、と胸中で笑う。まさしく獲物を仕留めた猟師のように。
「後一時間もすれば死んでしまうんですもの、自分の役割に囚われて襲い掛かってくるのもどうかと思うわね」

 ぐっ、とハティがうめき声を上げた。
「捨てられて者同士仲良くしましょうよ。どうしても戦いたいなら天国でいくらでも戦ってあげるから」
 苦笑交じりにハティが言う。
「俺の負けだよお嬢さん。決着は――まぁ、俺が負けているような気がするけど――天国へ持越してこの世にいる間は仲良くしよう」
「よろしくね」と、言いながら私は体をハティの方に倒し体重を預ける。毛皮は柔らかく暖かい。
 何だか安心する。酷く穏やかな気持ちで私は夜空を見上げる。
「……月にいる時は地球を見てなんて綺麗な星なんだろうと思っていたの。でも、地球にきたら月を見て綺麗だなって思ったわ。あんなに嫌いだった星なのにね」
 ハティは何も言わずただ黙って私の頬を舐めた。とても、優しく。
 言葉少なく、時は過ぎていく。

81 名前:No.21 月の子供 5/6 □HCRzaLgb0 投稿日:06/09/17 23:06:44 ID:nkI7IBDo
 月はその大きさを増して行き夜空の半分以上を覆い尽くしていた。
「そろそろか?」
「後、二十分くらいかな」携帯端末を見ながら私は答える。
「最期に何か言い残すことは無いのか?」
「有る」
「どうぞ」
「月子」
 ハティが変な顔をして私を見る。何を言っているんだこいつは、と言わんばかりに。
「私の名前よ。誰かさんが全然聞いてくれないんだもの」
 唇を尖らせて顔をふい、と横に向ける。ハティが苦笑いを漏らしながら言う。
「月子、か、平凡だが良い名前じゃないか」
「ありがとう。ハティは何かあるの?」
 彼は黙って首を振った。
 そして私達は黙って空を見上げた。大きくなる月を眺めていた。
「お嬢ちゃん――失礼、月子、言いたい事が有った」
「何?」
「君に会えて良かった」
 私も、と答えようとした瞬間――
――世界が白く染まった。私達は硬く寄り添って目を閉じた。

――光が過ぎ去り、一分、二分、三分……私は疑問符を浮かべながら目を開けた。
「……あれ、生きてる?」
「……みたいだな。今のは何だったんだ?」

82 名前:No.21 月の子供 6/6 □HCRzaLgb0 投稿日:06/09/17 23:07:00 ID:nkI7IBDo
 ふと、私は気が付いた。
 月が、消えている。
 唐突に携帯端末から音声が流れ出す。
「臨時ニュースです。たった今、火星から発射された一基のミサイルにより月が破壊され地球への衝突は免れました」
 ぽかん、として私達はそのニュースを聞く。
「ミサイルを発射したのは火星立第七博物館の職員であるヤマダ氏で、展示品であった惑星間弾道ミサイルが未だに使用可能な状態だった事を――」
 ニュースはまだまだ続いていたが、私達は静かに携帯端末の電源を落とした。
「これは無いよね」
「これは無いな」
 互いに言って、顔を見合わせ、笑う、馬鹿みたいに、面白くてしょうがなくて、涙が出そうなぐらい嬉しくて、笑う。
「この世にいる間は仲良くしよう、だったね」私は笑いながらいう。
「ああ、全く長い付き合いになりそうだな」ハティも笑いながら答えた。
 私はベンチから飛び降りて地面をごろごろと転がってはしゃぐ。
「これから何処に行く?」
 スキップするようにしてハティが私に続く。
「月子となら、何処へでも」
「なら、ね――」
 私は転がるのをやめ仰向けになって空を指差す。
「とりあえずあっちの方向はどう?」
 月の無い酷く広い空が私達の前には広がっていた。
「良いね。とっても良い」
 二人なら、きっと何処へだって行けるし、何処だって楽しいだろう。
 私は心の中でそっと月にさよならを告げて、立ち上がった。



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