【 未完成な恋 】
◆InwGZIAUcs




953 名前:未完成な恋1/4 ◆InwGZIAUcs :2006/09/03(日) 23:16:32.58 ID:qcQdCM4b0
「ねえ、君は愛って何だと思う?」
 東城高校美術部の同輩、夕子はいたって真面目な顔で問いかけてきた。
 二人きりの部室には夕日が差し込んでいる。しかし重ね着が余儀なくされるこの季節、
日が落ちるのはもう間もなくのことだろう。
「急にどうした?」
 唐突な彼女の発言に動揺を隠しながらも、俺は問いを問いで返した。
 夕子は普段から何を考えているのか理解しがたく、話しかけられる事自体珍しい。
というか彼女から話しかけてくるのは始めてかもしれない。
「じゃあ、今の恋人は愛しているの?」
 俺は半月程前から付き合っている人がいる。が、まさかそのことを持ってこられるとは思っていなかった。
「うん、あんまり深く考えた事はないけど」
「そう……」
 それだけ言うと、彼女は描き途中の油絵へと手を戻していった。
 何となく空気が重い。今日はもう帰ろう。
 バックを持ち席を立ち上がった時、再び夕子が口を開いた。
「ねえ、無償の愛ってあると思う?」
 今日の彼女はどうしてしまったのだろう?
 俺は「え?」と無脊椎反射で言葉を返していた。が、夕子は構わず続けた。
「私は無いと思う。好きな人に何かをした時、人は必ず見返りを求めている。自分という存在を主張したり、
相手にいい人に思われたい、とか」
 夕子はいつの間にか目の前にいた。身長の関係上、つまりは夕子の背が低い為だが、
首を少しあげ俺を見上げている。
 しかし、一体何が言いたいのかさっぱりだ。
 俺の気持を知らずか、夕子の話はまだ終わりそうにない。
「でもそれは世間一般、あまり咎められることはない。相手が好きならば当然の行動。
でも時に人はそれを偽善という言葉で批難することもある」
 俺は観念して彼女の話を一通り聞くことにした。その理由といえば、
話題も何やら興味深い上に夕子は入部当初から何かと気になる女の子であったからだ。
「偽善ね……」

954 名前:2/4 :2006/09/03(日) 23:17:08.75 ID:qcQdCM4b0
 耳が痛い。俺の良く言われる言葉である。
「そう偽善。でもそれって悪いことではないと思う。偽善っていう日本語がこの事をとても悪いことのように見せているだけ」
 もう日は落ちていた。部室についた照明。そこから聞こえてくる虫の声の様な音がやけに耳に引っかかる。
「決して見返りを求めないものが愛だとすれば、それは存在しないと思う。だから私は、人の愛、
つまり偽善をこう呼ぶことにした。『未完成の愛』……少しロマンチックな響でしょう?」
 正直俺は驚いている。
 夕子は神秘的な雰囲気を漂わす近づきがたい女の子。これが俺を含める男子の彼女に対する認識だ。
近づきがたいのは、彼女の容姿も大いに関係しているだろう。
 日本人形の様な真っ直ぐの黒い髪は、たとえ風に吹かれようが乱れることはない。さらにその顔は、
愛嬌こそ絶望的になかったが、そこらのモデルよりもよほど綺麗である。
 正直、俺が入部当初から彼女が気になっていた理由もそれに由来していた。
 しかし、コミュニケーション力がまたもや絶望的に乏しい彼女に恋することはついぞ無かった。
「完成することのない愛。人の愛が故に完成する事はないの。でも本当の愛に限りなく近づくことはできると思う……。
それが好きという気持の大きさ」
 何が言いたいのだろう? 俺は何度目かの疑問を自分に問いかけるが、答えは出そうにない。
 相変わらず直立しながら少し顔を上げる夕子に、俺は少し怪訝な表情を投げかける。
 その時俺は、夕子の頬が少し紅潮していることに気付いた。もちろんそれはとうに落ちた夕日のせいではなく、
彼女自身のものによることに疑う余地はない。
「みずさき――」
「君に私の未完成の愛をあげます」
 俺の声を遮り、彼女は上気した頬に気付いていないかのような乏しい表情で言い放った。
 因みに夕子の名字は水崎であるが、今はそんな事はどうでもいい……。
「え? な、なんで?」
 本日二度目の無脊椎反射。さらに自分が相当野暮な質問をしていることに気付き、一瞬で自己嫌悪に陥った。
「君を見ていた。君はとてもすごい。偽善と罵られても、その行為を止めようとはしなかった。
私はそんな君に惹かれたの。……だから私の未完成の愛、君にあげたい。未完成でも、
君の恋人さんよりかは完成に近いと思う」
 俺は困惑した。もちろん彼女の気持はとても嬉しいし、はっきり言って前から少し気になっていた女の子である。
 一瞬ではあるが、迷ったのも真実。でも、
「ごめん水崎。俺は恋人を裏切ることはできないし好きだ。だから、水崎のそれは受け取れない」

956 名前:3/4 :2006/09/03(日) 23:17:39.29 ID:qcQdCM4b0
恋人を裏切る事に対する罪悪感が俺にこの言葉を紡がせた。恋人が好きだとは言ったが、
正直愛とか未完成の愛だとか小難しい事まで気は回っていない。
 ただ言えるのは、俺が嫌だと感じたから……。
「そう。でもよかった。今すぐここで私を受け入れていたら君の事を嫌いになっていたかもしれない。
変わらないで……変わらないなら、いつまでも私の未完成の愛を君に上げられると思うから」
 彼女の目の潤いが錯覚か真実かは分からないが、
彼女はいつの間にか準備してあった鞄を持ち部室から出て行ってしまった。

 帰り道、俺は彼女の言葉を噛みしめながら歩いていた。何度も言ったが、
普段話すことがない女の子なだけにやたら強烈な印象を残している。
 夕子曰く、俺は偽善なことばかりしているということか。
 優しい人間のつもりでいた。人に優しくすることは当たり前のことだ。
でもそれは全て自分の為でもあった……知っている。そんなことは。
 夕子はそんな自分が好きだと言ってくれた。偽善は悪いことではないと言ってくれた。
 俺はいつの間にか夕子の事で頭が一杯になってた。
 その時、車のクラクションの音が少し聞こえた様な気がした。
 何かに勢いよく歩道へと突き飛ばされた。始めて自分が車道でふらふらしていたことに気付く。
 ドラマや映画でしか聴く機会のないタイヤとアスファルトの悲鳴が響いた。
 痛む体を起こした時、何が俺を吹き飛ばしたのかも見えた。……夕子だ。
 その夕子は車に激突し三メートルか、恐らくそれくらいは吹き飛んでいる。
 俺は嫌に冷静な自分をコンマ一秒で殺し、無我夢中で夕子の下へと駆け出していた。
もちろん救急車を呼ぶことなど思いつける思考はとうに殺してしまっている。
 決して乱れる事のない夕子の髪は血で汚れ絡まっていた。それがやけに痛々しく見える。
「な、中々の……未完成、な……愛でしょ?」
 彼女は言葉を紡ぐのに力を使い、気絶した。俺が彼女にできることなんか何もない。それでも、
俺は半泣きで彼女の名前を叫び続けた……。

 窓から見える一本の木も、芽が膨らんでいるのが分る。もうすぐ芽吹く時期だろう。
 病室が似合うなどといえば怒られるかも知れないが、白い病室で物憂げに外を見つめる夕子はどことなく絵になった。
 俺は今夕子の病室にいる。彼女と付き合い始めて二ヶ月ほどだ……。

957 名前:4/4 :2006/09/03(日) 23:18:11.55 ID:qcQdCM4b0
前の恋人は自分から別れた。「好きな人ができたから別れて欲しい」その言葉に罪悪感を覚えようが何をしようが、
つまりは自分勝手な行動である。その人から恨まれても仕方ない。
 最初、夕子に付き合ってほしいと言ったら、
「同情で付き合いたいとは思わないわ」
 と言われた。
 俺は必死に説得した。あの夜、告白がとても嬉しかったとか、夕子を振った後も夕子の事で頭が一杯だった、と。
 そしてようやく俺の愛を認めてくれた彼女との交際が始まったのだ。
 後で聞いた話、忘れ物を部室に取りに行くため俺の事故現場に偶然居合わせたらしい。
その話が本当ならば軌跡だ。本当はこそっと俺を見ていたのか、その話が本当なのかは分らないが、
彼女が身を呈して俺を庇ってくれた事には変わりない。
 つまるところ、彼女の俺に対する愛はほとんど完成されていたのだ。命を賭けて相手を守る。究極だ。
 俺は今、彼女のその愛に応えたいと思う。
 残りの人生、事故で動かなくなった彼女の足となることを誓ったんだ。
 それが俺の未完成、いや、ほとんど完成に近い愛の証である。
 いまだ窓の外を見ている彼女を、後ろからそっと抱きしめる。華奢な肩はすっぽりと収まってしまった。
「夕子……一緒に生きていこうな」
「君はそれでいいの? 辛いよ?」
「夕子から離れる方が辛い」
 俺の同情ではない本当の思い。伝わったかどうかは分らないが、夕子の頬はほんのりと赤くなっていた。

終わり



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