【 夜舞い 】
◆qygXFPFdvk
※投稿締切時間外により投票選考外です。




402 名前:夜舞い(1/3) ◆qygXFPFdvk :2006/08/28(月) 00:21:23.22 ID:b6SAK37W0
「はい。初期の老年性認知症です。えぇ、分かりやすく言うと痴呆症ですね。
 まだ、症状は軽いようなので短期記憶の欠落と徘徊だけですが、今後さらに進行するでしょう。
 申し上げておきますが、症状は重くなる一方です。快方に向かうことはありません。
 入院、とは申しませんがデイケアなどのサービスを利用されたほうがご家族の負担は軽減されると思います」

 義母が痴呆。医者の宣告を聞いて、私は呆然とした。義母はまだ還暦前なのに? だが、それは紛う事のない事実だ。
それには私も納得せざるを得なかった。あの現場を見てしまっては……
 私が義母を医者に連れて行ったのは、彼女の夜間徘徊が激しくなったからだ。数ヶ月前から食後にふらっといなくな
ることがしばしばあった。主人は、
「親父が死んで、暇になったんだろう。日中の暑い最中にふらふらされて熱中症で倒れるよりはいいじゃないか」
 と言っていた。確かに義父が亡くなってから、義母は口数が減った。それに、家事は私が一手に引き受けているので義
母の手を煩わせることはない。特に趣味も持たない人だったので益々寡黙になっていったが、それは落ち着いた初老の
女性の持つ落ち着きなのだと解釈していた。
 しかし、夜の散歩が夜間徘徊へと変わるのに、そう時間は掛からなかった。一ヶ月前には、日付が変わっても戻らず
主人が探しに行くとコンビニの前でぼうっとしていた。そして一週間前には、近くの交番で保護され、引き取りにいっ
た私たちに、
「こんなところで何をしてるんだい?」
 なんて暢気なセリフを吐いたのだ。
 さらに昨晩。私たち夫婦は夜の日課になってしまった義母の捜索中に見たのだ。夜の公園を舞台に半狂乱で踊り狂う
姿を。傍目には呆けた老人が騒いでるだけなのだろうが、あれは踊っていた。私たちには間違いなくそう見えた。私た
ちに見つかって、なお踊り続ける義母を主人が抑える。暴れる義母を引きずるようにして帰宅した主人は、翌日すぐに
でも義母を医者に連れて行くよう私に言った。私もその意見に異議はなかったため、それに従ったのだ。
 医者に連れて行った晩、帰宅した主人に診断結果を告げる。主人は特に興味なさそうに、
「そうか」
 とだけ答えた。


403 名前:夜舞い(2/3) ◆qygXFPFdvk :2006/08/28(月) 00:22:14.71 ID:b6SAK37W0
 それから私の介護生活が始まった。デイケアを利用するという医者のアドバイスは、主人の
「お前もまだ若いんだし、まだ必要ないだろう? お袋もそんなにひどい状態じゃないし。ま、ひどくなった時にはな」
 という、なんとも無頓着なセリフにより却下された。私も義母一人ぐらい介護するのは容易いことだと高を括っていた
ため、自宅での介護生活となった。義母も過ごしなれた自宅のほうが気楽でいいだろうし……
 しかし、介護というのはそう簡単なものではなかった。始めのうちは、扉を開け放したままにしておく事や、食事を
何度もとろうとする事、そして日課の夜間徘徊。私はその度に義母の後ろをついて行っては、開け放たれたトイレの扉
を閉め、四食目の食事を取り上げ、夜間徘徊から連れ戻した。
 介護生活が一ヶ月を過ぎると、義母の痴呆は進行の度合いを増した。私たちの就寝中に大声でわめくようになり、睡
眠時間を削ってくれた。排泄を失敗するようになり、私の食欲を減退させてくれた。その他もろもろの世話で、私は外
出する機会をほとんど失うことになった。
 私はすっかり音を上げていた。しかし主人は仕事で忙しいし、子供は大学で一人暮らししているため、私以外に義母
を介護できる人間はいなかった。せめて主人の姉夫婦が近くにいればよかったのだが……

 この頃だろうか。近所の先輩主婦からこんな話を聞いたのは。
「奥さん、だめよ。介護は正面から向き合っちゃ。こっちが擦り切れちゃうわ。人間だと思わないほうがいいのよ。ど
 うせ何言ったって、何したって、本人は分かってないんだから」
 聞いたときには、この人は何てひどい事を言うのだろうか? と思っていた。しかし、その考え方はいつの間にか私
の心に染みのように滲んで棲みついていた。
 義母が喚いているときには怒鳴って黙らせたし、下の世話は、義母が泣いて交換してくれと懇願するまで放って置い
た。早く死ねばいいという心の中の膿が簡単に口を飛び出し、それを聞いた義母が泣けば食事を抜いた。
 早く死ね、が口癖になった頃、私は徐々にそれを実行に移すようになった。もちろん殺人を犯すことなんて出来ない。
だから、元々高血圧の気があった義母に塩辛い食事を与えたのだ。もちろん義母は味が濃いと訴えたが、それしか食べ
るものがなければ渋々食べる。主人に訴えたこともあったようだが、私が
「お義母さん、最近だと何を食べても塩辛いと言うのよ」
 と言うだけで、主人はそれ以上何も言わなかった。
 定期健診で、医者に血圧が高くなってきている、と言われた時にも
「私は塩分に注意して食事を作っているのですが……どこかでお義母さんが間食しているのかもしれません」
 と言えば、薬だけ出しておきますので、だ。簡単だった。
 しかし義母の高血圧は、なかなか命の危機へと繋がらなかった。それ以外にも、徘徊したときにはすぐに探しに行か
ず事故が起こらないかと祈ったりもした。しかし、その祈りが実を結ぶことなどなかったのだ。私はさらに苛立った。


404 名前:夜舞い(3/3完) ◆qygXFPFdvk :2006/08/28(月) 00:23:00.40 ID:b6SAK37W0
 そして、あの日。風呂に入れることもなくなった義母の臭いを避けるため二階の自室に引き込んでいると、階段から
物音が聞こえた。嫌な感じを覚え、下を見るとまたも排泄に失敗した義母が階段をよじ登ってくる。
「お願い、気持ちが悪いのよ、オムツを替えてください……」
 涙や鼻水を垂れ流し、下半身をびしょ濡れにしながら上ってくる義母は、私にとって最早人間ではなかった。これは汚
らしい何か。呆気なかった。足元にすがり付く、それを足で一押し。笑える位にごろごろと回転しながらそれは落ちてい
った。
 そのときの私はとても落ち着いていたと思う。それが本当に死んだのかを脈を取って確認し、救急車を呼ぶ。後は、
ちょっと涙を流しながら
「ちょっと目を放した隙に……あれだけ階段は危険だと言ったのに……」
 誰も疑わなかった。葬式もすんなりと済み、私たちの家にやっと静穏が戻ってきたのだ!

 そう。静穏が戻ってきたのよ! あんなに簡単なら初めから突き落として殺せばよかったのよ! もう、下の世話を
する必要はないんだわ! これで夜はぐっすり眠れるし、徘徊した義母を探しに行かなくても済むわ! 私は自由なの
よ! ウキウキしてくるわ! 体が自由に踊りだして、腹の底から歌声が湧き出してくるのよ!
 あら、あなた! 一緒に踊りましょうよ! 公園はこんなに広いのだから! それにしても私はいつの間に公園に
来たのかしら――



「はい。末期の統合失調症です。えぇ、分かりやすく言うと精神分裂ですね。
 すでに、夜間徘徊などいくつかの症状が出ていますが、今後さらに進行するでしょう。
 申し上げておきますが、症状は重くなる一方です。快方に向かうことはありません。
 ご主人一人ではとても看護しきれません。入院をお勧めします――」

                                          夜舞い〜ヤマイ〜 ―了―



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