【 囚人 】
◆8vvmZ1F6dQ




207 名前:1/3 ◆8vvmZ1F6dQ :2006/08/19(土) 01:57:11.32 ID:Ns7BbRmq0
肌に風がぬるい。頬の傷が痛い。けれど、これは夢だろう。
何故なら、月が眩しすぎる。そして、大きすぎる。
夜空からはみ出して、地平線に半分隠れてしまっているではないか。
地平線へと続く大地も、草一本生えてない砂漠ではないか。
ここは、地球ではない。私の魂は、夢によって違う惑星に来てしまったようだ。
ふいに頬から血液が、雨よりも重い音を立てて、砂の上に落ちた。ぽたん。
もう一滴、頬から、這うようにして滑り落ちた。ぽたん。
月明かりに照らされて、赤いような黒いような、小粒のビー玉が輝く。
何故、私は血液を垂らしているのだろう。頬に傷があるからか。
いや違う、何故、私の血液はまっすぐに砂へと落ちるのだ。
重力。重力によって、血液はまっすぐと落ちる。重力によって、私の足はこの惑星にくっ付いている。
この惑星には重力がある。それも地球と同じくらいのものだ。
そんな惑星があったか。いや、実際にあってもなくてもいい。これは夢だ。
私は足を踏み出した。理由はない。夢に理由などいるものか。
相変わらず血液は流れ続けている。ぬるい感覚は続く。
顎の先から落ちた血液は、風に攫われ私のシャツに吸い込まれた。
風が吹いている。大気があるのだ。

208 名前:2/3 ◆8vvmZ1F6dQ :2006/08/19(土) 01:57:45.28 ID:Ns7BbRmq0
二歩、三歩と進む。ぽつぽつと血液は落ちる。シャツが赤く染まる。
私の呼吸音が聞こえる。腹の辺りが膨らんだり萎んだりを繰り返している。
私は歩いている内に、ある苦痛に気付いた。足が、曲げられないほどに、痛いというよりも疲れていたのだ。
足の裏を踏みしめるたびに苦痛が突き抜けた。呼吸も荒かった。吐くよりも吸う量が多い。
痛みに耐えながら、普通にするように歩いた。とたんに砂に足をとられ、もつれた。
膝にがくん、と体重が掛かった。足をこれ以上前に出せない。
しかし身体はなおも前に進もうとする。
身体が前のめりになった。両手が間に合わない。目はしっかりと月のほうを見据えたままだ。
砂埃をたてて、私の身体は惑星に叩きつけられた。腹と顎を打った。
こんな馬鹿なことがあるか。
痛かった。腹が、顎が、足が、全身が、尋常ではなく。躓いてこけたからだ。
夢なのに。
夢なのに、何故痛い。夢なのに、何故呼吸をしている。夢なのに、何故重力に逆らえない。
砂に擦り付けられた頬の傷が、沁みるように痛かった。痛みからか目頭から涙がこぼれた。

209 名前:3/3 ◆8vvmZ1F6dQ :2006/08/19(土) 01:58:32.01 ID:Ns7BbRmq0

もう、これは夢じゃない。自分の脳で繰り広げられている世界ではないんだ。
夢だと、自分に嘘をついていただけなのだ。
この惑星は存在する。私以外の誰かが作った惑星。私はこの星の名前を知っている。昔から知っている。
頬の傷も意味がある。歩きだしたのも意味がある。これは夢じゃないのだから。
認めなければならない。赤く染まったシャツは白には戻らない。
私は何年も前に、この星に放り出されたのだ。月のみが見守るこの惑星で、私は一人ぼっちになった。
長い年月を、月明かりに照らされながら過ごした。
遠い日々を、月に見守られながら過ごした。
気が狂いそうなほどに、月に監視されて過ごした。
ある日、私は死ぬことにした。首を斬り落とし、その血を冥府の王に捧げることにした。
しかし、死の恐怖に打ち勝つことができなかった。震える手は、代わりに頬を切った。
そして逃げ出した。どこから?
この星から。逃げ出して、帰ろうと思ったんだ。どこに?
故郷。緑の星、地球。どうやって?
空を飛んで。重力に逆らって。夢の中なら、空を飛べると思った。どうして?
夢は自由。現は不自由。……もうやめよう。私は眠る。そして夢を見る。
一度として忘れたことがない故郷の夢を。砂の枕と月光の布団に包まって。

この、“監獄星”の上で。

おわり。



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