【 運ぶ列車 】
◆ENT8/7zV5E




536 名前:タイトル「運ぶ列車」 テーマ「暗闇」 ◆ENT8/7zV5E :2006/08/06(日) 23:14:48.06 ID:pWl3AaOV0
気が付くと男は列車の中に居た。木造の床と天井に、赤いシートの長椅子。照明器具などは付いていないのに、
車内は何故だか暖かい光に満ちていた。息を吸い込むと、しっとりとした木の香りが鼻の中に広がる。
男は一度もこの列車に乗ったことは無かったが、それでもこの車内には、何か万人に共通の懐かしさの様なものを引き出す雰囲気があった。
ふと窓の外に目をやり、男は思わず息を呑んだ。
そこには満点の星空が広がっていた。吸い込まれそうになるほどに深い暗闇、そしてその中に、何百、何千もの星たちが燦然と輝いている。
黄金の輝きを放っている星たちは、しかしよく目を凝らすと、赤、青、オレンジと、様々な色を持っている事が分かる。
しばらくの間、男はその壮大な景色に見とれていた。
気付くと、一人の老齢な男性が、男の隣に座っていた。
年齢は恐らく七十前後であろうか、温厚な雰囲気の老人であった。
「こんにちは」男はその老人に向かって言葉を発した。
すると老人は、長い年月を重ねた者だけがもつあの優しさに溢れた微笑みを浮かべ、「こんにちは」と呟いた。
「素晴らしい景色ですね」男は続けた。
「ええ、実に素晴らしい景色です」顔を窓の外へと向け、老人は答える。
「こんなに素晴らしい田園は、見たことがありません」
「田園? 」思わず男は聞き返した。
「はい田園です。私はここへ来たことはありませんが、なんとも懐かしい感じのする、素晴らしいところです」
なるほど、と男は納得した。
確かに今この老人は田園の風景を見ている。確かにそれは事実だが、しかし真実では無い。
男にとっての星空が、この老人にとっての田園なのだ。ただ、それだけの事だった。
男の職業はパイロットだった。少年の頃から空が大好きであった男が、その空を駆け回る職業に心を惹かれるのはごく自然な成り行きだった。
実際にパイロットとして働き始め、そして男は星たちと出会った。手が届きそうなほど近くに黄金の輝きを感じ、操縦桿を手に漆黒の闇の中へと溶けていく。
ガラス越しにこの操縦席から見る景色は、筆舌に尽くしがたいほどの感動を男に与えた。
そして今、男は列車に揺られる。
星々の輝きは研ぎ澄ましたナイフの様に鋭く、暗闇の深さはまるで生命全てを包み込むかのように雄大だ。
列車は速度をあげ、どんどんその場所に近づいていく。
世界の景色は次第にかすみ、男や列車などと言った万物の境界は消失し始める。
黄金の輝きはいよいよその勢いを増し、漆黒の暗闇はますます深い。
もはや星や暗闇といった区別には何の意味も無く、光と闇が溶け合うその世界に向かい列車は登りつめ、そして、ついに、男は星と一つになった。
──死んだ人間の魂は、心の故郷に還るという。それが星空であるか、田園であるかはそれぞれだが
   「運ぶ列車」は、今日も死した人間の魂を乗せ、その場所へと走り続ける。──



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