【 月光 】
◆5puES0dE4M




204 名前:月光 1/3 ◆5puES0dE4M 投稿日:2006/07/22(土) 14:40:55.21 ID:Z6cPPlTu0
 それは酷く寒い、冬のとある夜の事。
 街は光に踊り、ともすれば月光すらも飲み込んでしまうかの様。
 その華やかな街の唯中にあって、とある路地が深い闇に沈んでいた。
 聳え建つ、ビルとビルのその間。
 幅は僅か一メートル。人一人が通れる程の広さしか無いその路は、二メートルも進めば殆ど光の届かない、黒い路地に打って変わる。
 其処は昼間とて人が寄り付かない、忘れられた街の死角。けれども今夜この時は、ある人物が其処に在った。
 一人の、少年が。
 壁に背を預けて座る彼の髪は色を抜いておらず、まるで闇に溶ける様に黒い。そしてそれに相反するかのように、肌はまるで雪のような白さを
浮かべていた。けれどもその肌の所々には僅かな、斑のような朱の色を混じらせている。
 アスファルトに広がる赤い海に腰を沈め、彼は荒い呼吸と、何か笛の鳴るような音を闇に響かせている。白い首元からは止め処なく赤い液体が
流れ、彼の沈む海はゆっくりと、その広さを増してゆく。
 ――そう。彼は、自らの血の海に沈んでいた。
 彼の命はもう長くは無い。分に満たぬ時を以て、その生涯に終止符が打たれるだろう。今は唯、冬の寒さだけが彼の命を永らえているだけ。
 指先から血の雫が流れ落ち、赤の海に波紋が広がる。暗がりに反響する水音で、彼は僅かに顔を上げた。
 空ろな瞳が、おぼろげに空を捉えたその瞬間。黒の路地に淡い光が差し込んだ。
「あ――」
 笛を鳴らせながら、彼は僅かに声を洩らす。
 頭上には月。円に満ちる、美しい満月。
 意識があるのかさえ不確かだった瞳が、月光を受けて微かに輝いた。
「あ、あぁ」
 もはや言葉にならぬ声を喘ぎ、血に濡れた腕を、もう力の入らぬであろう右腕を無理矢理に、空の月に向けて伸ばす。
 一陣の、寒さをのせた風が凪いだ。
 風の後に残されたのは瞳から輝きが消え、腕をだらりと下げた少年の骸。首元から流れ出る血液は死して猶止まることを知らず、一帯を赤色に
染めてゆく。
 血塗れた銀色が、僅かに光って魅せた。
 冬の月下。事切れた、少年の骸の顔には――

205 名前:月光 2/3 ◆5puES0dE4M 投稿日:2006/07/22(土) 14:41:12.50 ID:Z6cPPlTu0
 幼い頃、僕は日曜日が堪らなく嫌いだった。
 塾に通っていた訳では無いし、遊ぶ友達が居なった訳でも無い。ただ、両親と毎週変わらず出かける、その日曜日が耐えられなかったのだ。
「智之、早くしなさい」
 外出を告げる、両親の声が死刑宣告に聞こえてくる。目的地へと向かうただの道ですら、絞首台の階段とも感じた。
 いや、そうであったらどれ程救われただろう。刑は執行されず、階段は永遠に続く。それこそが、本当に苦痛だった。
 それらの嫌悪に明確な理由が有った訳ではない。恐らくただ単に、心の底から嫌いだったのだ。
 ある晩の事。母が外出中に、父にその気持ちを告げたことがある。
 寡黙で、厳しかった父に反抗するのはそう容易く行える事ではなかった。むしろ、それが最初で最後の事だっただろう。
 しかし、子供の必死の願いは父にすら、神様にですら届くことは無かった。
 あぁ――思えばこの時に、神なぞ居ないと気付ければよかったのに。
「智之! 言うことを聞きなさい!」
 寡黙であった父は、その日を境に変貌する。
 虐待。纏めてしまえばその一言で済んでしまうかも知れない。けれどもその実は、想像を絶するものだった。
 毎晩、気を失うまで何度も殴られた。
 骨の折れる事など、そう珍しい事でもなかった。
 熱湯をかけられ、転げまわる夜とて幾度とあった。
 苦痛に歯をかみ締め、奥歯の欠ける時もあった。
 まるで牢獄のように、押し込められた納屋だけが自由だった。
 そして、その納屋の窓から眺める月が、堪らなく――好きだった。
 それでも決まって曜日は訪れる。ぐったりと力の抜けた僕を引きずる様にして、日曜日の外出は繰り返された。
 外出の間は暴力を振るわれることは無い。それでも僕は父の暴力以上に、その日曜日が耐えられなかった。
 それが五年。よく生きていられたと自分でも思う。ほぼ欠かさずに行われた暴力は、確実に僕の体を蝕んでいたというのに。
 余命幾許。まともな病院に通った結果、医者はそんな言葉を僕に告げた。
 やはりと言うかまさかと言うか。この世には、祈りを捧げる信者を救う、慈愛に満ちた神様などは居なかったのだ。
 病院からの帰り道。日も傾いてきた頃に腹積もりを決めた。
 神様は存在しない。だから、僕は死んでも裁かれることは無いのだ。そう考えれば気持ちは軽い。長年の想いが、遂に叶う。
 途中、人気の無い丁度良い場所を見つけた。あそこなら、誰にも邪魔されずに済む。
「ただいま!」
 久しぶりに、元気な声で言えたと思う。
 さようなら父さん、母さん。そしてさようなら。大嫌いな、神様。

206 名前:月光 3/3 ◆5puES0dE4M 投稿日:2006/07/22(土) 14:41:34.46 ID:Z6cPPlTu0
 年末の街中、通り行く人の流れに混じるように、二人の男の姿があった。
「結城さん、今回の虐待の被害者、自殺したって本当ですか?」
 細身の青年が、隣を歩く男に声をかける。
 中年の髭の生えた背広の男。結城と呼ばれたその男は、取り出した煙草に火を付けながら、あぁと曖昧に言葉を返した。
 紫煙を吐いて、二人は大通りから黒い路地に足を踏み入れる。人一人しか通れない狭さの所為で、自然と二人は並ぶ形となった。
「でもどうしてですかね。虐待を受けていた被害者が、なぜ事件が発覚してから自殺したんでしょう。もう暴力に怯えなくて済むって言うのに」
「さぁな。その辺の動機とかを調べるのは他の奴らの仕事だ。餅は餅屋。俺達下っ端刑事はこうして、上からのお使いをこなしていればいいって
事よ。……まったく、それにしても人使いの荒い。こんな時期に現場の調査? 今更俺達が来たって、もうなんもある訳ないってのに」
 嫌だ嫌だと呟いて、男は更に奥へと進む。凡そ十メートル、といった所だろう。それほどの距離を歩いたところで、二人は同時に足を止めた。
「ここか」
 男の足元には、そこが現場だと示す何本もの白い枠線。その一つは壁と地面を跨ぎ、人の形を模している。
 後ろに位置する青年が、懐から黒塗りの手帳を取り出した。
「それにしてもこの柳瀬智之って子、実の両親に五年も虐待させてたなんてちょっと可哀相ですよね。しかもこの家、熱心なキリスト教信者らし
いですよ。日曜日には親子三人、欠かさず教会に足を運んでいたそうです。……全く、何が隣人を愛せだ。何を考えてたんですかね、この親」
「キリスト教、ねぇ」
 呟いて男は髭を撫でる。短くなった煙草を捨て、踵で踏んで火種を消す。そして気付いてみれば、闇に染まる路地に光が差していた。
 男が上を見上げれば、頭上に月が昇っている。
「丁度良い明りだな。余計な光がないから、お月さんだけで十分明るい」
 同じように月を見上げて、青年が言う。
「キリスト教じゃ、自殺は罪らしいですね。なんでそんな、わざわざ罪を犯す最期を選んだんでしょう」
 転生を司る天の月は今宵、下限の形を誇っている。
 多分、と男は煙草を取り出しながら呟いた。
「神様なんてモン、この世に居ないって気付いたんだろ。裁く神が居ないから、自分は死んでも許される。だから自殺した。本当はそいつ、ずっと死にたかったんじゃねぇの?」
 成るほど、と青年は頷く。
「確かにそうかも知れませんね。遺体は確か――」
 月光の差す路地に僅か、寒さを乗せた風が凪ぐ。青年の台詞は寒風に呑まれ、男の耳に届く事無く消えていった。
 冬の今宵。宙に浮かぶ黄金の月は澄んだ寒空に美しく、街の光に負けぬように輝いていた。
 それはまるで、満足げに笑う少年のように――。



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