【 或るヤマネコの一生 】
◆AHSIH.WsAs





82 :お題:食べる 題名:或るヤマネコの一生 ◆AHSIH.WsAs :2006/06/10(土) 16:24:31.59 ID:j6kZOuh10
ある山林には記憶を失ってしまった子供のヤマネコが住んでいた。
何処でどうして記憶を失ったのかは覚えていない、それに他の誰かに聞きようも無い。
彼は数日前に記憶を失った状態で目覚めてから、酷く難儀な生活を送っていた。
例えば、山林の地形。
どこが北か南かも分からない山林で彼はうろうろと歩き回る他は無く、本能的な物として体が覚えていた彼流の走り方で、あても無く入り組んだ林を駆け巡り、限界に達したら地面に突っ伏して眠る。
眠るべきタイミングを忘れてしまった彼は、この様に限界まで体を酷使して、その限界を超えさせるというやり方で睡眠を得ていた。
満たされぬ生活、疲労もさることながら空腹も彼の敵であった、体がだるく力が入らない、それを空腹感だとも、食事という習慣さえも忘れてしまった彼は日に日に弱っていくしかない。
とうとう彼は歩く事もままならなくなり、地面に横たわりながら細い呼吸をしているしか無くなった。と、目の前に小鳥がやってきた。
彼は自分を興味深げに見つめる、この二つの小さな目の持ち主を小鳥だとは分からなかった、ただ、限界に際していた彼の体はそれを必要な物だと認め、意識の到達を待たずに、勝手に動いた。
彼はやっと自分が小鳥を食べてしまった事に気付く、この、記憶を失ってから初めての食事は彼にとって衝撃的だった。
一噛みごとに体中に快い充足感が溢れ、命の流れのような物が小鳥から自分の体にゆっくりと流れ込んでくる。
彼はすぐに立ち上がる体力を取り戻し、感動のあまり空を仰ぐ。
彼の上で重なり合って生えている葉は以前よりずっと美しく、神々しく感じられる。
食べる事とは山林と一体になる事、彼は、そう考える事にした。
それから彼は山林を悠々と散歩して周り、必要になったら食事を取り、食事が終わればいつも空を仰ぐ、そして、疲れればどうにか習慣として取り戻した睡眠をとるという生活を送る事になり、そしてそれらが、彼の生活の全てであり、彼はその生活に満足していた。
そんな生活が続いてしばらく経った頃、彼はいつものように薄もやのかかった山林を散歩している。
と、不意に水辺の一本の木が目に止まる。
――この木は、知っている気がする。



83 :お題:食べる 題名:或るヤマネコの一生 ◆AHSIH.WsAs :2006/06/10(土) 16:25:24.80 ID:j6kZOuh10
彼は不思議な思いにかられて木に寄り、木の周りをぐるぐるとゆっくり廻る、やはり、気になるのはこれだ。
――この傷は僕がつけた物だ。そんな気がする。
それは、木の幹についている爪で引っかいたような傷、彼はそれを覚えていた。無くさずに残していた記憶の欠片が不意に呼び起こされた、そんな感じだ。
――この木に登ろうとしたんだ。
――何のためにだったっけ…。
――そうだ、あの果実を取ろうとして…木から落ちたんだ。
――ここは僕が目覚めた場所…。
彼の目の色が変わった、そうだ、それで記憶をなくしたのだ。
彼は瞬間的に記憶の殆どを思い起こした、山林の地形や、住んでいる動物、季節、そして一種の欲も。
彼は焦って天を仰ぐ、今まで呑気にも神々しいと感じていた葉は、茶色くなってしまって力なく揺れている。
――冬が来る!
季節を知ってしまった事からの恐怖、彼はすぐに走り出し、山林中の食糧となるような物を狩り始めていた。
生きるための糧、より安全に、より豊かに!
もはや食事に以前のような充足は感じられ無い、少しでも多く食べる事に必死だった。
彼の「食べる」はより貪欲で義務的な物に変わり、彼は食後に空を仰ぐ事も無くなり、ただ山林を駆けていた。

それから数年が過ぎた。
彼は、ヤマネコは、既に老いており、食も細くなってかつての勢いと貪欲さは無くなっていた。
時々思い出したようにのろのろと狩りに出かけ、後は大木のうろの中で外を眺める毎日。
貪欲さが失われつつある中で、彼の中で新たに蘇りつつある思いがあった。
「食べる」に関しての事。
彼はミミズを啄ばむ小鳥を遠くに見ながら思う、それは記憶を無くした直後の食事、生命感に溢れ、全てを美しく見させたあの食事。
生涯の内、わずかな期間だったが、彼が物をまともに食べられたのはその時と生まれた直後だけだった気がする。
それ以外の食事はとても一方的で、荒々しく、いわば「喰らう」といった感じだった。
――今なら、もう一度「食べる」事ができるかもしれない。
そんな事を思った彼は、鳥がミミズをくわえて飛び去るのを見届けた後、腰をあげ、暗いうろから這い出た。



84 :お題:食べる 題名:或るヤマネコの一生 ◆AHSIH.WsAs :2006/06/10(土) 16:25:53.55 ID:j6kZOuh10
――懐かしい。
「喰らう」為に駆け回っていた頃とは違い、ゆっくりゆっくり湿った土や、柔らかい草を踏みしめて歩く。
虫、花、木々の枝の一本一本に至るまでまるで見え方が違っていた。それは神々しくも見てとれた。
――水辺の方まで行ってみようか。
夢心地の中、彼がゆっくり足の向きを変えた瞬間、彼の体に痛みと衝撃が走り、大きく傾いた。
咄嗟の事だったが、不思議と彼は驚かなかった、見ると、離れた茂みの奥で槍を掲げた人間達が飛び跳ねながらなにか喚いている。
彼の体は一本の槍で貫かれていた、視界が暗転し、体温や命の流れが失われていくのを感じる。
しかし、彼は人間達を恨みはしなかった、今まで喰らう側だったのが喰らわれる側になっただけの事、心残りは、最後に何も「食べる」事が出来なかったことだ。
――彼らは自文達の先祖ですら、平気で喰らうのだろうな。
薄れてゆく意識の中、近付いて来る歓声は山林中に染み渡り、その全てを汚していく気がした。





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