【 噂 】
◆8vvmZ1F6dQ




661 名前: ◆8vvmZ1F6dQ :2006/06/04(日) 12:51:35.10 ID:ybJXife50
真っ青な空に、眩しさはなかった。
太陽は、視界の右側にあるビルに隠れている。寝転がって見る空は切り取られた絵のようで、
雲はまったくなく、絵の具一色だけを使った絵だったが、地面から伸びる電柱やビルがそれを形取っていた。
背中にごつごつと当たるコンクリートの地面はやけに冷たくて、昼まで待ってもここに太陽が当たることはないと分かった。
それが、逆に、ありがたい。その方が痛む体を動かさずに、青を眺めていられる。
肩から流れ出す憎悪を、空が慰めてくれているような気がした。

ミサはある噂を聞いたことがあった。この辺りに、早朝、幽霊が出る、という噂だ。その幽霊は子供で、誰も見たことがない子だという。
そして、今は早朝だ。さらにはミサの目の前には、一人の子供が立っていた。
太陽に当たったこともないような、真っ白な肌の少年だ。少年の、長袖からわずかに覗く手首から、痛々しい傷跡が見えた。
その傷を理由にして、ミサは彼をアパートに連れて行った。どうにも放っておけなかった。
彼が噂の幽霊なのか。部屋に入るまで、彼は何も喋らず、確かに幽霊のようだとミサは思った。

ミサは少年の傷の手当てをした。服を脱がせると、それは全身にあり、ミサは思わず眉を顰めた。
「あんたあそこで何してたの?」
ミサの問いに、彼は何も答えようとはしない。しばらくの沈黙が続く。
この質問は諦めて次に移ることにした。
「傷はどうしたの」
これにも何も返事は返ってこず、少年は傷を隠すように身を捻っただけだ。この後もいくつか質問したが、何も回答は得られなかった。
彼がもう帰らなくてはいけない、というので、何かあったらおいで、とミサは帰り際に言っておいた。
放っておくと、壊れてしまいそうなほどの脆さを、少年に感じたからだ。
それからというもの、少年は何日かおきに、それも決まって早朝に、ミサを尋ねるようになった。
ミサの生活は夜型で、早朝と言えば就寝前の時間。苦にはならず、出来るだけその少年を暖かく迎えた。
彼は、口数こそ少なかったが、確かにミサに救いを求めていた。



662 名前: ◆8vvmZ1F6dQ :2006/06/04(日) 12:51:56.00 ID:ybJXife50
「すぐそこでオバサンたちがお前の噂をしているぞ」
男は開口一番、挨拶もせずミサに言った。
「どんな噂?」
いきなり入ってきた男にも関わらず、ミサは黙々と、洋服をたたむ作業を繰り返しながら、落ち着いた様子で言い返した。
「なんでもお前に隠し子がいるとかな」
「ああ、私、最近子供に懐かれててさ。よく訪ねてくる子供がいるのよ。それを勘違いしてるみたいね」
男は、そうか、と言いながらミサの作業に目をやった。ミサは先ほどからずっと、服をたたみ、それを旅行用鞄に入れ、荷造りをしている。
ミサはこの男とどこか遠くへ行くつもりだった。男は裏の世界の人間だ。そちらの方でごたごたがあり、この界隈にいられなくなったらしい。
荷造りを終え、部屋の整理をしてから、ミサは男とアパートを出た。門に主婦が何人か居て、すれ違う時に視線を感じた。
男の車に荷物を乗せ、ミサは助手席に座る。数秒と待たずに車は発進した。
「お前を訪ねてくるっていうガキは、いきなりお前がいなくなって、驚くだろうな」
ミサは、そうね、と言いながら住み慣れたアパートを見送る。街を去る途中、いつもより大分遅い時間にアパートへ向かう、少年を見た。


663 名前: ◆8vvmZ1F6dQ :2006/06/04(日) 12:52:34.46 ID:ybJXife50

あの人に会いたかった。初めて出会った他人、とても暖かかったあの人に。
その気持ちで、こっちの世界に飛び込んだ。あの人があの日、一緒にどこかへ行った男と、近い世界に。
だけど、そこでもすぐにあの人に繋がるような情報は見つからなかった。考えれば当たり前のことだった、あの人がいなくなってから十年が経っている。
ようやく見つけた情報も、噂話程度の物で、確かではなかった。それなのに、その噂を追いかけて、大怪我を負ってしまう自分は、なんと愚かなんだろう。
元々、まともな家庭で育ったとは言えないから、あの人がいなくてもこの世界にいたかもしれないというのは、よく思うことだ。
だが、その場合、怪我を負うような無茶はしなかっただろう。
空ももう見飽きた。どれくらいこの場所にいるのだろうか。
ふと、頭の方から、足音が聞こえてくることに気付いた。頭は、大通りの方角を向いていた。
確実に、足音はこちらに近づいている。腹から流れる血が、地面と体をくっ付けてしまっているようで、どうにも動けない。
危機はそこまで迫っていた。低い声が、耳に届く。
「追いかけっこは、終わりだ」
冷たい鉄の塊が、こちらに向けられていた。カチャリとハンマーが引き上げられる音がした。男が指にかけた引き金を引けば、本当に終わりが訪れることだろう。
「あの人はどこにいるんだよ」
ようやく声をひねり出す。男の表情に変化はない。
こちらの様子を窺っているようだった。
この状況と、傷口に熱を持っているからか、気付けば全身に汗を掻いていた。痛みに絶えながら、最後の叫び声をあげる。
「ミサはどこにいるんだよ」
「死んだよ」
男の答えが、すぐに銃声にかき消される。空の端に日没を告げるオレンジ色が見えた気がした。

おわり



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