【 冷静と情熱の愛だ 】
◆0CH8r0HG.A




76 :No.17 冷静と情熱の愛だ 1/5 ◇0CH8r0HG.A:08/04/14 00:02:19 ID:P+bd93wT
 漫画が大好きだ。愛していると言える。
 それは、キャラが好きであるとか、絵に萌えるであるとか、物語に感動するであるとか、そういった感情とは別次元の話だと言っていい。
 例えるのなら、親が子供に対して注ぐ、無償の愛とでも言うべきか。とはいえ、俺は漫画の生みの親ではないが。
 だから、そうそうのことでは怒らない。
 仮に買った漫画が世界で最もつまらなかったとしても、俺は金の無駄をした……とは考えないだろう。漫画とはそれだけで慈しむ対象である
からだ。それは内容によって左右されるべきではない。そう思っていた。

 俺は古本屋めぐりをライフワークとしている。目当ては勿論漫画であるが、この作業には実は大変な苦痛も伴う。
 もともと古本とは、ほとんどが中古の本である。すなわち、彼ら(あるいは彼女ら)は捨て猫のようなものなのだ。
 元の持ち主に飽きたといって売り払われたり、つまらないといって読むことさえされなかったのが彼らなのだ。
 古本屋を覗くたび、その悲痛な本生に深い悲しみを覚える。
 俺がもう少し金持ちだったなら、彼らを誇りの積もった小汚い本棚から救い出してやれたであろう。しかし、実際俺に出来るのは、自らの目
に留まったごく一部の者達との出会いに感謝することのみなのだ。
 そうして古本屋をいくつか巡るうちに、まるで冗談のような出会いをすることもあるのだ。あの本との出会いはそんな冗談の中でも極めつけ
に奇跡に近いものだった。
 ジメジメした湿気が多少収まり、蝉が道路に転がり始める夕暮れのことだったように思う。 

「よう、少年。面白い漫画があるんだけど?」
 埃の積もった漫画の山を前に深く溜息を吐いていた俺。その俺に、彼らの売買を生業とする人買いのような男が声をかけてきた。
「すみません。俺は漫画の内容にはそれほどこだわらないので」
 カウンターの中にいるこの店の店主らしき男にそう答える。その下卑た笑みが俺の彼への深い憎しみをより一層強めた。
「おいおい、そう怖い顔をしなさんな。あんた本を凄く大切にしてくれそうだからさ。特別サービスで言ってるんだぜ? 普通の客にはオスス
メしないんだがなぁ」
 人間とはつくづく単純な生き物だと思う。それほど言うのなら見てみようかな、という欲求が零れでたのだ。
 例え誰に言われようと、漫画への愛情を理解されるというのは悪くなかった。よく見れば、店の漫画は綺麗に梱包されているようだ。それほ
ど悪い男でもないのかもしれない、などと彼への評価も変わってしまうのだから。
「どんな本なんです?」
 店主に向き直り問うと、男はニヤリと笑みを深くした。
「そうこなくっちゃ。ちょっと待ってなよ」
 暫くして、男は一冊の本を抱えて戻ってきた。アイボリーのカバーが掛けられており、外表紙から内容を推察することは出来ない。


77 :No.17 冷静と情熱の愛だ 2/5 ◇0CH8r0HG.A:08/04/14 00:02:33 ID:P+bd93wT
「これこれ。もうこの一冊しか残ってないんだよね。というか、この一冊しか見たこと無いんだけどさ」
「俺、そんなに金持って無いですよ?」
 念のために言った。時折、値段の分からない漫画をレジに持っていって驚愕することがあるからだ。
 俺の言葉に男は安心しなよ、と笑って本を差し出した。
「…思ったよりも綺麗ですね」
 とりあえず、側面は紙は日に焼けてもおらず、綺麗な白さを保っていた。中身を確認しようとすると、それは男に止められた。
「ここで開かれちゃ困るんだよなぁ。その子、恥ずかしがりやだからさぁ。一人で読んでやらないとグレちゃうんだよ」
 なるほど、恥ずかしがりやね。それは俺が悪かった……なんて思わない。いくら漫画を愛している俺でも、漫画が恥ずかしがるなんて思わな
いからだ。
「何馬鹿なこと言ってるんですか? 中を見ないとどんなものかも分からないじゃないですか」
 俺が男に言うと、男はがっかりしたような呆れたような顔になった。
「何だよ。少年もそんなつまらないことしか言わないのか。こりゃ見込み違いだったなぁ。漫画への愛が足りないってもんだ」
 ちょっと待てよ。そいつは聞き捨てならないな。俺ほど漫画を愛してる人間は他にいないんだぜ?
 俺は彼の言葉に腹が立って、そのいけ好かない顔を睨み付けた。先ほどの言葉を撤回する。こいつはムカつく男だ。
「おいおい、そんな怖い顔をするなよ少年。俺は別に少年を馬鹿にしてるわけじゃないぜ? ただ、少年の漫画への愛はその程度か、って言っ
てるだけだよ」
 その言葉が、俺への何よりも耐えがたい侮辱なんだよ、おっさん。
 俺はもう我慢が出来なくなった。いつもなら、内容を吟味する所だが、頭に血が上っていてそこまで気が回らない。
「いいですよ。買いますよ、これ。あんたの言葉を借りるなら、漫画を愛する人間にこそ、この本は相応しいんでしょ? だったら俺以上に相
応しい人間なんていないんだ」
 男はすこしきょとんとした後、盛大に吹き出した。完全に馬鹿にされているらしい。
「いやいや、くくっ……スマン少年。少年の気持ちは良く分かった。だが、俺にはまだ少年にその本が相応しいかどうか判断が出来ないのさ。
だから、少年を試させてもらう」
 男はひとしきり笑うと、言った。試す? 面白いことをほざいてくれるじゃないか。試すまでもなく、結果は分かっているんだぜ?
「お前さんに、その本を三日間貸してやろう。もしその間、漫画に対して一度も怒りを覚えなかったらそれをあんたに売ることにする。だが、
もし少しでもその本に腹を立てたなら、そいつをここに返しにきてくれ。まぁ多分返しにくるまでもないだろうがな」
 
 俺は釈然としないものを感じながらも、その本を抱えて店を出た。何よりも、店の男に俺の漫画への思いを舐められているのが我慢ならなか
った。だが、冷静になってみると、読んだことの無い漫画をただで読めるのだから悪くない。

78 :No.17 冷静と情熱の愛だ 3/5 ◇0CH8r0HG.A:08/04/14 00:02:47 ID:P+bd93wT
 そう言い聞かせて自分を納得させた。

 自分の部屋。机と本棚とベッドしかない部屋だ。といっても本棚が三つあって、それらにはびっしりと漫画がしまわれているが。
 俺はベッドの上に寝転ぶと、早速例の漫画を開いた。
「何だこりゃ……?」
 そこには、何も描かれていなかった。真っ白な紙だけがそこにある。何枚めくってもそれは変わらない。絵も台詞も一切なく、ページ番号す
ら振られていない。
「……あー、なるほどね。そういうことか」
 つまりあの男は、あれだけ好き勝手言っておきながら、結局はこれを見てキョトンとする俺、あるいは怒り狂ってこの本を店に持っていく俺
を想像して笑いものにしたかったのだ。
 それ以外には考えられない。
「しかし、手の込んだくことするね。お客失ってもいいのかなぁ、くだらない」
 俺は怒らなかった。何故ならば、奴が言った漫画を愛する云々という言葉の説得力が失われたからだ。単なるペテン師の言うことだと分かれ
ば、怒りなんて沸いてこなかった。むしろ、自分の漫画への愛を再認識出来た喜びがある。
「あー、せっかく出かけたんだから、他の漫画買ってくりゃ良かったなぁ。コテコテのラブコメとか」
 俺はそう一人ごちて、その夜は眠りについた。
 
「ふぎゃー!ふぎゃー!」
 俺が目を覚ましたのは、それから五時間後だった。酷くうるさい赤子の泣き声が聞こえてくる。
「……ったく、何なんだよ。夜泣きか? どこの馬鹿親だ。子供ほったらかして」
 眠い目をこする。と、どうやら随分と近くから聞こえてくるようだ。というか、自分の枕元から聞こえてくるのである。
 夢か? とまず考える。しかし、このやかましさはどう考えても夢ではない。
「どういうことだ?」
 とりあえず、俺は部屋の明かりを点けてみた。枕元には何の変化も無い。眼鏡ケースとお気に入りの漫画が数冊、アラーム代わりの携帯と
財布、そして昨日の漫画……
「……こいつは一体何の冗談だ?」
 枕元の例の漫画は、まるで赤子のようにページをばたつかせ、泣き喚いていた。

 夜泣きする漫画。そういう存在を見た時に、出来ることは限られている。
 まずは頬をつねる。どうやら夢ではないことを確認する。そして考える。一体何故泣いているのか。いや、それ以前に、漫画とは泣くもので

79 :No.17 冷静と情熱の愛だ 4/5 ◇0CH8r0HG.A:08/04/14 00:02:59 ID:P+bd93wT
あったのだろうか? いや、確かに泣く漫画というのは存在するが、それはあくまで読者が泣くのである。
 俺は先ほどまで寝ぼけていた、今は完全に覚醒した頭を振って思考を働かせる。何をすべきか?
 とりあえず泣き止ませねばならない。何故なら今は深夜だ。近所迷惑なのである。漫画が何故泣くのかを考えるのは、それからでもいいはず。
「……おーよしよし」
 俺は、いささか微妙な気分になりながら、本を抱いてやる。重さは変わらないが、絶対に落としてはいけないという義務感と、優しくしてや
ろうという母性が沸いてくるのを感じる。
「あー、うー」
 しばらく、ゆっくり揺すりながら、そしてそっと撫でてやりながら抱いていると、漫画は泣くのをやめた。とりあえず一安心だ。ばたつかせ
ていたページも今は閉じている。
「よしよし。じゃあ寝てくれよ?」
 俺は自分の横に本を寝かしつけると、そっと上から布団をかけてやる。が……
「うううーっ!うえぇん」
 ダメだ、泣いてしまう。俺は再び本を抱きかかえた。しばらく抱いてやると泣き止むのだが、それは根本的な解決にはならないようだ。
「まさか、腹減ってるんじゃ……」
 俺の心に不道徳で背徳的な妄想が沸いて出た。赤ん坊の飲むのは乳だ。母乳である。
「あっふぅ! くぁん!」
 ……吸わせてみたが、やはり俺の胸ではダメなようだ。当然だ。俺から乳が出るわけが無い。仕方なく、牛乳を温めて飲ませてやると決める。
 ページに人肌程度のミルクを吸わせると、それはあっという間に沁み込んでいった。背筋を感動交じりの電流が走り、これが母親の喜びなん
だと実感する。
「……馬鹿か俺は」
 冷静に考えると、なんともふざけたことである。深夜に牛乳を温めてそれに漫画を浸しているのだ。
 俺は飲み終わった漫画の背中をポンポンと叩いてゲップをさせると、今度こそ一つの布団で眠りについた。

 オムツを卒業したのはいつだったろう? 俺はトイレに行くことを学んだのが遅かったらしく、かなりの間おねしょに悩まされた。布団に描
かれる世界地図は、子供の特権である。
「……そうだよなぁ、夜泣きするんだもんなぁ」
 俺は自分の布団の冷たさに泣きそうになる。
「用心しなきゃいけないよなぁ。でも、そんなの無理に決まってんだろ……」


80 :No.17 冷静と情熱の愛だ 5/5 ◇0CH8r0HG.A:08/04/14 00:03:16 ID:P+bd93wT
 俺は布団を乾かしてから、本にもドライヤーをかけてやる。本が熱くないように注意して乾かしてやる。一通り乾かしてから、今度はくっ付
いてしまったページを優しく剥がした。しわくちゃのそれを剥がすたび、不思議な罪悪感を覚えた。
 しかし、これでも俺は怒らない。むしろ喜びを覚えていたのだ。漫画への愛情がこれほど明確に伝わることに。
 
 それから二日。俺は漫画を例の古本屋に返しにいこうとはしなかった。本が泣いたりおねしょしたりする理由なんてどうでもよくなったのだ。
ただ、そこにある漫画にのみ、俺の興味はあった。
 むしろ、三日経ってから改めてこの本の代金を払いに行くつもりだったのである。
 しかし、この数日の間にいろいろなことがあったものだ。最早俺は母親であり父親にもなっていた。
 漫画にはジーンと名前を付けた(マガジンより)。今では難しい年頃の女の子だ。反抗期ではあるが、それもまた可愛く見えてしまう。もう、
ジーンの為なら俺はどんな辛い目にだって耐える自信があった。それこそが親というものだろう。
「パパなんか知らない!」
 そう言ってリビングから俺の部屋に戻ってしまうジーン。もうこの姿も何度見たことだろう。その後で、俺は美しいしおりを持ってジーンの
元へと向かうのだ。彼女は少し頬を膨らませながらも、パパ大好きとか言って俺の胸に飛び込んでくるのである。
 階段を登り、部屋のドアを開ける。
「ジーン。機嫌をなおしておくれ。この通りだ。君に良く似合う美しいしおりをあげるから」
 俺は彼女に精一杯の笑顔を向けた。
 ジーンはそっと、本棚の影から顔を出す。恥ずかしそうな顔だ。俺の胸はいっぺんに彼女への愛に染まる。
「パパ、あのね……」
 顔色をうかがっているようだ。大丈夫俺はもう怒ってないよ。
「あのね、実はね」
 俺はうんうんと頷いて先を促してやる。仲直りしたら例の本屋へ行こう。そしてジーンを正式に俺の娘にするのだ。
「何だい? ジーン」
 彼女が大きくなったら、結婚したっていい。それはとても背徳的なことかもしれないが、俺にとって彼女よりも大切な存在はいないのだから。
「……出来ちゃったみたいなの」
 そう言って、本棚の影から出てくるジーンとドラゴンボールの二十七巻。
 数秒の沈黙と、声にならない絶叫と、ドラゴンボールへのかつて無い憎しみ。
 彼女の純白の体に染みのように浮き出た超サイヤ人と、カバーの上からでも分かる膨らみ。
 俺が生まれて初めて漫画に怒りを覚えた瞬間だった。

 終わり



BACK−希望を見つけた人の話◆p/JOQpoRu6  |  INDEXへ  |  NEXT−エリカ◆0KF/UBMvVE