【 日曜日の夜に 】
◆7BJkZFw08A




20 :No.06 日曜日の夜に 1/3 ◇7BJkZFw08A:08/03/30 21:45:20 ID:3XCuot6H
 私はどうして歩いているんだろう。どこを歩いてるんだろう。
月のない夜、暗い夜。
真っ黒な服と真っ黒な靴。

 今日は日曜日、つまり明日は月曜日ということだ。
 加藤誠一は月曜日の朝を恐れていた。正確に言えば、加藤は彼の行った悪事が明るみに出ることを恐れていた。
加藤はとある製薬会社の一社員だった。
ある時、彼は自分の立場を利用すれば会社からある程度の金を引き出せることを発見した。
折しもその時彼は少しばかり金に困っており、このくらいならばれないだろうと思って、少しだけその『手段』を使うことにした。
 それから彼は少しずつ、少しずつ、同じ方法で会社から金を引き出した。
気がつけば、彼の使い込んだ金額はかなりのものになっていた。
加藤は先週になってようやく事の重大さに気づき、パソコンの前で顔を真っ青にしながら固まった。
これだけ大きな金額ではもはや監査の目を逃れることは不可能である。かといって自分で補てんすることもできない。
そしてまずいことに、監査は次の月曜日から始まるのだ。
 彼は必死になって自分の保身と事態の好転を必死に考えたが、一週間足らずでどうなるものでもなかった。
加藤はここ何日か寝ていなかった。眠れなかったのだ。
今日も昼の間はカーテンを閉め切り、ずっと家の中にいた。外に出る気にはなれなかった。
 頭が重く、胸が苦しい。
 彼はもともとそんなにずぶとい神経の持ち主ではない。
何かよからぬことをやってしまってから自らの罪を確認して青くなるということが彼にはよくあった。
今回もそうである。しかも、おそらく彼の人生における一番大きな。
 太陽が沈み、辺りが暗くなった。
一歩一歩近づいてくる夜明けの足音が聞こえてくるような気がする。
加藤は無性に外へ出たくなった。というより、家の中でじっとしていることに耐えられなくなった。
 気づけば彼は、自分の持っている一番良いスーツとコートを着て、夜の街を歩いていた。
煌々と夜道を照らす街灯や車のランプの人工的な輝きは、彼の心を否応なく掻き毟った。
(俺は何をしているんだ。こんなことをしている場合じゃない。明日の朝までに何とかしなければ俺は破滅だ。しかし……)
 どうすることもできない。彼にはそれがよくわかっていた。
自然と歩調が速くなる。どこに向かっているのか彼にはもうわからなかった。
加藤の脳裏に『死』とか『人生』という言葉が泡のように浮かんでは消える。

21 :No.06 日曜日の夜に 2/3 ◇7BJkZFw08A:08/03/30 21:45:42 ID:3XCuot6H
 少し小高くなっている道路の向こう側から、二つの明かりが現れた。唸りを上げてトラックが走って来た。
もし、今自分がちょっとばかしバランスを崩して道路に倒れ込んだらどうなるだろう。加藤はふとそんなことを考えた。
(馬鹿な! まだ俺は死ぬ気はない。しかしもう俺はどうなる。会社の金を横領したってのはそんなに軽い罪じゃない。
 逮捕……刑務所! 何年? いや何十年? 殺人じゃあるまいし……)
自分で自分の考えを打ち消しながら思考をさらに渦巻かせ、彼は通り過ぎて行く巨大な鋼鉄の塊を見送った。

 私が在るのは暗い夜の間だけ。昼はどこにいる? どこにもいない?
冷たいコンクリートを冷たい光が舐めている。
私は朝が嫌いだ。何故かは知らない。

 この辺りは、中心部を少し抜けるとすぐに田んぼ混じりの住宅街だ。
街灯もぐっと少なくなるし、こんな夜中に出歩く者もいない。
加藤は寂しい夜道を一人で歩いていた。
(もう嫌だ。考えるのが嫌だ。しかし明日が、月曜日がやってくる。このまま時よ止まってくれ……!)
 もはや彼の頭は夜の空気に惑わされ、わけのわからぬ妄想と願望に支配されている。
だから、彼は向こうから歩いてくる人影に対してさほど注意を払っていなかった。
人影は加藤の少し前まで来ると歩くのをやめた。加藤も歩みを止めた。
「なんだお前は」加藤は尋ねてみた。人影は答えない。
「なんだお前は」もう一度尋ねてみる。やはり人影は答えない。
 頭から足まで黒一色の服装なのだろう。全身真っ黒でどこか不気味な、しかし惹きつけられるような雰囲気を纏っている。
加藤は今、街灯の明かりの下、正確には、ぼやりと丸いその切れ目にいる。
人影は明かりの当たっていないところにいる。
だからだろうか。まだわずかばかり散らばっている光がほのかに夜を照らしているのに、その人影のある部分だけが一層黒くて暗い。
まるでその人影の部分だけこの世の光りが全て消えてしまうような。
 加藤は無視してまた歩き始めた。
人影の横を通り過ぎる時、彼の耳に言葉が滑り込んだ。
「あなたは朝が嫌いですか」
 ぎくっとして、加藤は歩みを止めた。
振り返って問う。
「お前、何か知っているのか? 俺を、俺のことを」

22 :No.06 日曜日の夜に 3/3 ◇7BJkZFw08A:08/03/30 21:46:09 ID:3XCuot6H
 冷汗が加藤のわきの下を伝った。
加藤は睨みつけるように人影を凝視する。
彼は人影のすぐ近くにいたが、人影の長い髪と夜の暗さが邪魔をして顔は見えない。
「何も。ただあなたはどうやら明日の朝が嫌いらしい」
 男の声とも女の声ともつかぬ淡くて不明瞭な、それでいて言葉だけははっきりと刻みつけられるように頭に残る不思議な声。
「だから何だ。お前にどうにかできることじゃない。そうだろう?」
 イライラとした声の中に、切羽詰まって何かすがるような響きを含んだ声で加藤は言う。
人影は答えた。
「私は夜に歩く者。あなたが望むなら、私と一緒にずっと夜を歩き続けましょう」
「一緒に……?」
「ずっと一緒に、私と同じ夢を見続けましょう」
 す、と人影が手を伸ばした。
「……何?」加藤には人影の言っていることがわからなかった。
 もし彼が正常な思考のもとにあったなら、彼は即座にその場を離れただろう。
しかし今の彼は、心身共に正常な状態ではなかった。
 だから彼は理解した。
人影の言うことに従えば、永遠に朝日を見なくて済むということ、自分のこの苦しみから永遠に解放されることを。
しかし彼はその裏返しのこと、二度と朝日の当たる世界に戻れないことは考えなかった。それを考える思考の隙間が無かった。
 ついに彼は人影の手を取った。
す、と加藤の身体が人影に吸い込まれる。
瞬く星が夜の雲に飲み込まれるように、影の中にふわりと消える。
加藤がいなくなると、人影はまた歩きだした。

 人が朝を厭うのは、休息の日が終わる夜。
もし朝の光を望まない人が、暗い夜に彷徨い歩いたら、私と出会うこともある。
私は、私たちは、その人と一緒に夢を見続ける。
夜を歩きながら、ずっと……

 空が白んできた。人影はもう見えない。



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