【 空中庭園 】
◆www..KONOU




40 :No.10 空中庭園 1/4 ◆www..KONOU:08/03/23 21:07:52 ID:DSEkF2jw
 僕が空中庭園を手に入れたのは思いのほか暖かい春先だった。月給の三分の二が飛んで妻には怒られたけれど、僕はそんなこと気にも留めなかった。
 初めて手に入れた僕だけの空中庭園! 直径8メートルくらいの大きさしかないけど、僕が昼寝を
する分には充分な広さだし、ささやかながらもきちんとした小屋があるから雨風だってへっちゃらだ。
周りにぐるりと小さな柵だってついてる。もっとも、このタイプを選んだのは友人が口を酸っぱくして
僕に忠告したからだけれど。その友人は壁のない平坦なタイプの空中庭園を持っていて、彼の父親が
パーティをしているときに酔っ払い足を滑らせて転落、全治二ヶ月の大怪我をしていたから。
 僕はせっせと芝生やトマトや花の世話をした。皮膚病の犬みたいだった芝生は丸刈りの中学生のように
生真面目になったし、ひょろひょろのトマトは青い小さな実をつけた。花だけは虫に食われて花弁に
大きな穴があるけれど、それを除けばまずまずの出来だった。
 夏も中ごろの暑い日にやってきたデュークは僕の空中庭園を見て言った。
「なんていうか、久しぶりに見るといいもんだなぁ」
「そうだろう」
「しかしなんだってこんな一昔前のものを買ったんだ」
「ずっと憧れてたんだよ」
 そう言うとデュークは小首をかしげ、しばらく考えてから生真面目な顔で答えた。
「憧れを実行できるというのはとてもいいことだ」
 僕は笑って庭園の入り口に手をかけた。本当はアーチにバラかラズベリーを這わせたかったんだけど、
バラもラズベリーも寒さに強くて小さな白い花が咲くものがまだ見つかっていなかったので扉の周りには
細い鉄がむき出しのままだった。小屋の中に入ると彼は小さく口笛を吹いた。軽く見渡して窓へと進み、
彼のために運んできた籐のガーデンチェアに腰掛けた。
「悪くない」
「ありがとう」
 僕は少しだけ得意げに笑った。悪くないって言うのは彼の最上級の褒め言葉だから。
「珈琲と紅茶どちらに?」
「紅茶を。薄く入れたクイーンマリーに蜂蜜を少しだけ、レモンを添えて」
 そう言って足を組む彼を眺めて僕は少し笑った。
「なんだよ」
「いやぁ、別に。相変わらずだなぁと思って」
 僕は戸棚から赤いほうろうびきのやかんを取り出してお湯を沸かしにキッチンへと向かった。
キッチンでは妻が大きな鍋に次々と洗ってヘタをとったトマトを放り投げていた。

41 :No.10 空中庭園 2/4 ◆www..KONOU:08/03/23 21:08:14 ID:DSEkF2jw
「なにしてるの?」
「紅茶を入れようと思って」
「そう。そこの棚にクッキーの缶があるよ、チョコチップはわたしの分だから置いておいてね」
「君は何をしてるの?」
「トマトソースの作り置き」
 キッチンは蒸気と水の音とトマトが鍋に落ちる音に満ちていた。こういうのを幸せと僕は呼ぶけれど、
きっとデュークに話したら鼻で笑うだろう。
沸騰したやかんとクッキーの缶を持って戻ってみれば、デュークは腰掛けたまま僕の読みかけの本を
かぶっていた。僕は少し眉をひそめてティカップを温めた。
「それ、まだ全部読んでないんだ」
「それはよかった、また最初から読めるよ」
 僕は大きくため息をついて紅茶を入れた。僕の分はストレートで、彼の分は蜂蜜をティスプーン一杯と
半分、そして輪切りにしたレモンを二、三度沈めて取り出して。
「君が来る度に食事にレモンが出るんだ」
「いいじゃないか、たまにはそういう刺激も必要だ」
 デュークは長くなってきた前髪をうっとうしそうにかきあげて紅茶とクッキーを3枚取った。
僕は立ったままクッキーを2枚かじって缶の蓋を閉めた。それから僕達はいろんな話をした。僕はトマト
につく虫を払うために植えたミントが思いのほか育ちすぎていることを、そしてデュークは今までに立ち
寄った様々な街のことを。
 彼はいつだって気がつけばいなくなっていて、忘れた頃にやってくる。もしかしたらこの街に住んで
いるわけではなくて、ここもまた彼が立ち寄り去っていく街なのかもしれない。もしそうだとしても
僕は彼をこの街にとどめることはできない。彼はとても流動的なのだ。僕は彼に紅茶を出すことはできる
けど、彼を一箇所にずっと住まわせることはできない。王様の家来や馬にだってできやしない。
彼はそういう種類の人間なのだ。
「月は毎回造られているんだよ。そして周期的に落としてしまう。簡単に言ってしまえば生と死を繰り返している。
そうしないと循環がうまく行かないんだ。もちろん月の形を変える役割の人間だっていた。これがまた変な男だったが
そう悪いやつでもない。欠けていくように見せるのが一番大変だそうだ。ピントを合わせるのにはダイヤが一番都合が
いいらしいんだが、消耗が激しいからたくさん必要になる。すぐにくすんでしまうから取り替えないといけないんだ」
 僕はクッキーをかじり、飲み込んでから妙に真剣な顔をしたデュークに言った。
「君は将来物書きにでもなればいいよ」

42 :No.10 空中庭園 3/4 ◆www..KONOU:08/03/23 21:08:30 ID:DSEkF2jw
 お前もか、といったふうにデュークは大きくため息をついた。
「まったく、君はもっとこの世界のことを知ろうとは思わないのか?」
「あいにく君みたいにうろうろしてるとご飯が食べられなくなっちゃうからね」
 僕には妻もいるし、仕事だってある。それに僕は今のこの生活が気に入っているんだ。デュークはいかにも
つまらないといった顔をして立ち上がった。窓を開け放ち煙草をくわえ、ポケットから取り出したマッチを擦る。
通り抜ける風は涼やかで、僕は思わず目を薄めた。
「君が下に行っている間に考えていたんだが」
 デュークはとても真面目な顔をしながらクッキーのくずを払い落とした。
「この空中庭園の名前はきまっているのか?」
 僕はすこし考えてから言った。
「決まってないよ、昔みたいにどこの家も持っているわけではないからね。あの頃はみんな同じような庭を持ってて、
それが風に流されたりして問題になったからつけるように決められていたけれど、今のところそういうこともなさそうだから」
「じゃあ俺がつけてやろう」
 彼はとても人の悪い笑みを浮かべて言った。
「名前をつけてやる。誰よりも立派で誰よりも馬鹿みたいな素晴らしい名前だ」
 僕は言った。
「いいよ、どうせ君のことだからろくでもない名前なんだろう」
「失礼だな、立派な名前だって言っただろう。きっと君も喜ぶし君の奥さんだって気に入るよ」
「じゃあ聞いて気に入ったらつけるよ」
 僕はクッキーの缶をいじりながら言った。彼はそんな僕を楽しげに眺めながら高々と言った。
「エンゲルハンス島だ。いい名前だろう? さりげなくて小さくてわかりにくい」
「ちょっと待ってくれよ、もっと空中庭園らしい名前があるだろう?」
「エンゲルハンス島のどこが悪いんだ。素晴らしい名前じゃないか、ぴったりだね」
「僕はもっと空中庭園的な名前がいいんだ」
 僕が慌てて彼に詰め寄ろうとしたとき、テーブルの上に備え付けられた小さなベルが鳴った。
「ラザニアができたわよ。デュークもよかったら一緒に食べない?」
「ちょうどよかったヒルダ、空中庭園の名前が決まったんだ。エンゲルハンス島だよ」
「ちょっと、勝手に決めないでくれよ。そしてそんなに連呼しないでくれ。本当にそれが名前になってしまうじゃないか」
「あら、いい名前じゃない。エンゲルハンス島。素敵だわ」
「そう思うだろう? 君の旦那は頭が固くて理解してくれないんだよ」

43 :No.10 空中庭園 4/4 ◆www..KONOU:08/03/23 21:08:45 ID:DSEkF2jw
「待ってくれ!」
 僕がベルに向かって叫んだとき、空中庭園が少しだけ震えた。
「ほら、つけられた方だって喜んでるじゃないか」
 デュークは悪い笑みを浮かべ、庭を見渡した。
「早く降りてらっしゃい。冷えても知らないんだから」
 ヒルダは少し呆れたように言ってベルが切れた。
「ああもうなんてことなんだ。これは僕の空中庭園なのに」
「いいじゃないか。空中庭園っていう名前の空中庭園にならなくてすんで」
 飛び込むように椅子に座ってデュークが笑う。
 僕は水風船のようなため息をついて庭の端にある自転車にまたがった。
「なにそれ?」
「これ漕ぐと屋上にもどるようにしたんだ」
「わざわざ漕がないともどれないようにしたのか!」
「ちょっとした冗談をお店で言ってみたんだよ。そしたらこうなった。しかもギア比が悪いらしくてかなり漕がないとダメなんだよね」
 デュークは腹を抱えて笑った。
「ラザニアは冷えるな」
「ヒルダには悪いけどね」
「代わりに君がほかほかだ」
 こうして僕とデュークは空と雲の上から少しずつ地面に戻っていった。
 

 3時間ぶりに降りた屋上からはチーズとトマトの匂いがした。



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