【 Life 】
◆pzeqHnbTWY




54 :No.13 Life 1/5 ◇pzeqHnbTWY:08/03/09 23:43:54 ID:UJ1xGysT
 暗がりの中、僕は部屋の片隅でぼんやりと光る水槽を覗き込む。
 水槽の中では15匹のグッピーが気ままに泳いでいて、そのガラスの向こうにはミライの真剣な顔がある。
 2つの大きな瞳が水槽のライトでいっそう輝いている。そしてグッピーたちの動きをしきりに追っていた。
 その様子はさながら綺麗な蝶を追う子供、おもちゃを見つめる猫のようで、まったくこの姉は姉らしくないな、と僕はいつものように思うのだった。
 ミライは水槽の中を指さし、お腹の大きなグッピーが1匹その先で泳いでいる。妊娠しているのだ。
 グッピーは卵を産まず、お腹の中で子供を孵す珍しい魚だ。
「もうすぐ産まれる、もうすぐ産まれるね」
 ミライは僕に向かって、まるで世界中の優しさをありったけ込めたみたいにうっとりとそう言った。
 あるいはミライが話しかけた相手は当のグッピーなのかもしれなかった。
 僕たちはガラスの水槽を挟んで向かい合っていたのだし、出産が近いことは見れば誰でもわかるからだ。
「そうだね」
 僕はガラス越しに返す。僕は、けれどミライが話しかけた相手は僕自身だと確信してみる。
 この場で返事をするのは僕しかいないのだし、だいいち僕は話相手をグッピーに譲るつもりはさらさらないのだった。
 水槽に付属するろ過装置が低い音を立てて唸っている。一度も壊れずに今日まで動いている。その音はずっと低いままだったし、これからもずっと低いままだろう。
 この部屋で時間の経過を告げるのは、水槽の中のグッピーの妊娠の経過と、窓の外で毎日決まった時間に昇っては沈む太陽だけだ。
 太陽が沈んでからだいたい6時間が経ち、グッピーの出産までは残り数日になっていた。
 僕も妊娠したグッピーを目で追い始める。
 ゆったり泳ぐそれは、重そうなお腹を気にするそぶりを少しも見せない。水の中なら恐らく苦労は少ないはずだ。ミライの2つの大きな瞳は、同じくらい大きなグッピーのお腹を一心に見つめていた。
 そのミライを僕は水槽越しに見つめて、そして僕を見つめるものはこの暗い部屋の中には何もないのだった。
 ミライと僕と15匹のグッピーがこの部屋のすべてなのだった。
「ねえ、ミライ、僕は思うんだ」
 ミライの視線が水槽を通して僕に向けられた。その中の15匹のグッピーは皆そっぽを向いていたけれど、僕はミライに返事をしてもらえれば十分だと感じる。
 そしてミライは返事をしてくれる。
「なあに?」
「子供が産まれたって世界は何も変わらない、ってね」
「……きみは、たまぁに変なことを言う」
 ミライは僕をきみと呼ぶ。ミライは自分自身のことは名前で呼ぶ。ミライはいつも真剣で、そして僕はいつもいいかげんだ。
「ちょっと思っただけだよ」
「ミライはそんなこと思わないの。それに、世界っていう言葉は軽々しく使っちゃいけないよ。ずっと昔にきみとミライは約束した。You remember that?」
「ここは日本だよ、たぶんね」

55 :No.13 Life 2/5 ◇pzeqHnbTWY:08/03/09 23:44:10 ID:UJ1xGysT
 より厳密にはミライと僕の部屋の中の、現在唯一の光源となっているグッピーの水槽の前だ。右手にはダブルベッドがあって左手には稀にしか引かれないカーテンに覆われた窓がある。
 それがミライと僕の居場所であり、禁止された言葉で表すならば、世界の中での位置、だ。絶望的に相対的で不安定な位置。僕から見ればベッドは右手でも、ミライから見ればベッドは僕の左手だ。
「へりくつは何も産み出さない、けれどグッピーは子どもを産むよ。ミライはそれでいいの。それ以上は期待しない。それが、ミライの永久不滅のポリシーなの」
「……ミライがそれでいいなら、僕もそれでいいけれど」
 それは心の底からの本音だった。
 ミライは満面の笑みとともに言う。
「Good! じゃあ寝ようか。子どもが産まれたらお祝いしよう。方法は、ミライが夢の中でじっくり考えておくから」
 そしてミライは水槽から離れベッドにもぐり込んだ。シーツがこすれる音、やがて規則正しい寝息が僕の耳に届き始めた。
 僕は消し忘れられた水槽の灯りを消し、その瞬間部屋をどっぷりと覆った暗闇の中に身を沈める。
 それから僕は音を聞く。ミライの寝息。ろ過装置の低い起動音。窓の外、車の走る音、サイレン、それから、自分の心臓の音。
 僕はベッドに手探りでもぐり込み、ミライの温もりを背中に感じながら昨日や明日と同じような一日を終えようとする。あらゆる音が聞こえる。
 後ろからミライの寝言が、それらに混じってもはっきりと聞こえる。
「みんな、おやすみ」

 どれほどかわからないほどの昔、ミライはニワトリを孵化させようとしたことがある。
 黄色くふわふわしたひよこを飼いたかったわけでなく、成長した親鳥に毎日卵を産ませたかったわけでもなく、ただ純粋に、卵からニワトリを孵化させたかっただけなのだという。ミライはいつもそうだ。
 ミライは常に変化を求める。それも共通の価値概念や世界観が崩壊するような変化でなく極小の変化を。
 かつて一人の探検家が世界中の神学者にもたらしたような変化でなく、かつて一発の銃弾が世界大戦を引き起こしたほどの変化でなく、一人の描く個人的な世界像が少しだけ彩りを増すような変化を。
 そのためにミライは、夏に電気ストーブを引っ張り出し、箱に新聞紙を詰めその周囲を40度に保った。そして卵を10個、箱の中心に並べ孵化を待ち始めた。
 そして世界中の愛情をありったけ込めたような視線で卵を眺めた。
 しかし卵が孵化しないことは、ミライを除く世界中の人が知っていたのだった。少なくとも僕は知っていた。
 なぜならそれは市販されている卵であり、恐らくは冷蔵庫に長期間保存されていて完膚無きまでに死んでいる卵なのだ。
 さらに言ってしまえばそれは無精卵だった。要するに根本的な問題として、この卵が孵化する確率は0%を超えることは絶対にありえないのだった。その確率が0から動くことは永遠にありえないのだった。
 それを聞いたミライは卵を全て近所の猫に献上し、そしてしばらくのあいだ家には帰ってこなかった。
 その期間は数日に及んだ。
 そのあいだ図書館に通いつめ、悲劇的な結末を持つ小説ばかりを選んで読んでいたらしかった。
 なるほど現実は悲劇的なほど非劇的だけど、小説はいつも劇的だろう。
 一人の描く個人的な世界像は小説によっていつも少しだけ彩りを増す。
 帰ってきたミライは僕の知るミライと同じでも、そのミライが見る世界は以前のミライが見るそれとは違うはずだ。

56 :No.13 Life 3/5 ◇pzeqHnbTWY:08/03/09 23:44:27 ID:UJ1xGysT
 何が一番面白かったか訊く僕にミライはこう答えた。
「リア王」

 ミライと僕の部屋からは灰色の空と工事現場が見える。15メートル下には道路が見えるけれどミライも僕もあまり下は見ない。
 カーテンを引いたときに見るのは専ら灰色の空であり、永遠に工事中の工事現場であり、ごく稀に、その工事現場の色を薄めて見せる朝日だった。
 朝日を浴びた工事現場はさも嫌そうに鈍い光を放った。
 そこは6、7階ほどの高さを持つはずの、けれどその半分の高さしか持たないビルだった。
 周囲は同じ高さの青いシートに囲まれているけれど、ミライと僕の部屋の方が高いから中の鉄骨が見えた。
 鈍い光はそこからミライと僕の部屋に届いた。それは完全に過去からの光だった。たとえば何光年もかけて遥か彼方の天体から届く光のような。
 けれどビルからの光には、見る者を感動させる輝きもなければ悠久の過去に想いを馳せるよう見る者を喚起させる力もなかった。そのビルは一切が死んでいるのだった。
 ハイヒールの踵ほどの墓など残らず、ただ空虚に鉄骨だけが残っているのだった。
「タイトル、『幽霊ビル』」
 ミライはある日真剣な眼差しを死んだビルに向けて言った。
「近所の子どもたちはそう噂しているかもしれない」
「かもしれないね」
 僕はミライの横に並んで返した。しかし僕たちが近所の子どもたちの噂を知る由もなかった。あいにく知るつもりもなければ知る必要もなかった。それは徹底的に他人事だった。
 もっとも、十中八九そんな噂が飛び交っている気もしていた。人間の思考は人間自身によって解析されてしまうほど単純なのだし相手はまして子どもなのだった。
 そんな子どもたちを見て親たちは微笑ましく思うかもしれないが、その微笑ましさもまた解析され得るのだろうことは容易に推測できた。要するにいたちごっこなのだった。
「不毛さはキライ」
「僕も好きじゃない。けれど、嫌いでもない」
「……それは、いわゆる普通ってことかな」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。好きの反対は無関心って言うのが一番適切かもしれない」
「ふうん」
 ミライは、依然として幽霊ビルを見つめ続けていた。その視線はもし見つめ続けていれば何かが起こるかもしれない、と期待するようでもあった。あるいは見つめ続けているから何かが起こってほしい、と願望するようでもあった。
 けれど依然として幽霊ビルは死に続けているのだった。
 ミライは、さっとカーテンを引くとぽつりと言った。
「もしも核爆弾が落ちるのならあの上がいい」

 その朝は稀な朝だった。ミライがカーテンを引くと、朝日がミライと僕の部屋の中を眩しいほど照らした。朝日は斜め上から部屋に差し込んだ。水槽を通った光は床に落ち、水のきらめきを残しながらゆらゆらと揺れた。
 グッピーの子どもたちも同様に朝日を浴びていた。

57 :No.13 Life 4/5 ◇pzeqHnbTWY:08/03/09 23:45:57 ID:UJ1xGysT
 それは、文字通り世界を照らす光だった。
「産まれたね、ミライ」
「……産まれた」
「でも、何も変わらないね」
 ミライは僕の言葉を聞かなかったように水槽を覗き込んでいる。その先では小さなグッピーたちがせわしなく泳ぎまわっていた。ミライはしきりに数えている。「7」。ミライが言う。「ラッキーセブンの7匹」
 そして水槽の中には22匹のグッピーが泳ぐ。
 ミライが、水槽越しに僕に話しかけた。
「変わったこと、あるよ」
「何?」
 ミライは、満面の笑顔で言う。
「グッピーの数」
「……それが、ミライの求める変化?」
 ミライは一度、その大きな瞳をしばたかせた。それから世界中の優しさをありったけ込めたような視線を僕に向けた。それは紛れもなく僕に向けられた視線だった。
 そして、紛れも無く僕に向けられた言葉が続くのだった。
「世界は、そんなに悲観すべきものじゃないよ?」
「……禁止ワードだ」
 僕がそう言うとミライはくすりと笑う。そして餌の缶を取り出すと水槽の上から少し多めにばら撒いた。グッピーは自分の子どもを食べることもある。餌を不足させるのは何より致命的だ。
 子どものグッピーも、小さな餌の欠片にしきりに飛びついた。
「……『ひとが生まれ落ちると泣くのはな、この阿呆ばかりの檜舞台に引き出されたのが悲しいからだ』」
 ふと、ミライがつぶやいた。それは『リア王』の、リア王その人による台詞だった。
「でも彼らは泣かない。だからこの世界は、まだ悲観しなくたっていいんだよ、きっと」
「……屁理屈だ」
「違うよ」
 ミライの顔がガラスの向こうから消える。立ち上がっていた。ミライはそのまま水槽を覗き込む僕の横に来て耳もとで囁く。
「事実なの」
 僕は、あいにくと上手い返事を持っていなかった。むしろまともな返事を持っている方が少ない。ミライが僕の横から離れ僕は水槽から目を離す。幽霊ビルは相変わらず鈍い光を放っていた。
 鈍い光は水槽にも届いているはずで、けれど水槽の中は、目を細めたくなるほど眩しい光で溢れているのだった。
 それは生きている者と死んでいる物の差かもしれなかった。
「さあ、行こうよ!」
 ミライの声で僕は振り向く。ミライはすっかり着替えて外出用の出で立ちになっていた。それは確かに目を細めたくなるほど眩しい姿だった。

58 :No.13 Life 5/5 ◇pzeqHnbTWY:08/03/09 23:46:09 ID:UJ1xGysT
「行くって、どこへ?」
「買い物に」
「何を買いに?」
「世界を変えるものを買いに」
「……世界を変えるもの?」
 ミライは僕の質問に答えなかった。ただ指をまっすぐに伸ばした。僕の後ろのずいぶんと人口密度の上がった水槽に向かって。その答えは明白だった。
 世界を変えるその買い物に僕が必要な理由は、なるほどミライ一人の腕力を鑑みれば当然なのかもしれなかった。
 確かに世界は変わる。
 そしてそれは、ミライと僕がもたらし得る最大の変化なのかもしれなかった。
「お祝い」
「ん?」
「グッピーたちへのお祝いなの。世界を変えるのは」
 それはあまりに上等なお祝いだ、と僕には思えた。
 同時に、考え得る中で最良のお祝いにも僕には思えるのだった。
「グッピーたちに嫉妬してる?」
「それはミライの方だと思うけどね」
「確かに、そうかも」
 ミライは笑う。それはどこまでも屈託のない笑みで、たとえば万が一この世界が変わってもこの笑顔だけは変わらないでいてほしい、と僕は思う。
 するとミライのお腹がぐうと低く鳴って、「どこかに朝ごはんを食べに行こ」とミライは言う。
 僕は何ら異議を唱えない。
 変わりに僕には言うべき言葉があるからだ。
「ねえミライ」
「なあに?」
 僕は言う。
「核爆弾が落ちるなら、やっぱり僕もあの上だと思うよ」
 そしてミライは言う。
「事実だもの」

  <了>(Mに、この世界で捧げ得る最大限の感謝を)



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