【 月下美人の幻に 】
◆twn/e0lews




67 :No.16 月下美人の幻に 1/5 ◇twn/e0lews:07/10/08 00:16:22 ID:GHgD87hW
 沖からは磯の香と潮騒、浜を駆ける白いロングコート。
ゆっくり歩く僕を置き去りに彼女は波打ち際へ。
歩き辛かったのか、その手には林檎色のパンプスが握られて、裸足。
何か踏んで怪我でもしたら危ないと注意したけれど、いつもの様に、大丈夫と一言で返されて、それ以上言えば彼女の機嫌を更に損ねると判断した。
 ふと浜を見ると、終わりの見えない砂道は夕暮れよりもその幅を細めて、深夜と言っても良い時間、満潮が近いのだろう。
波の泡音は耳から入り、体を内側から冷やす。
時折狂った様に吹く風は耳を鳴らし、髪を掻き乱して、その度に一段とひどい寒さが頬に刺さる。
 来なければ良かった、と思う。
砂も海も、ホテルの縁側から見ると輝いていたのに、降りてしまうと暗いだけ。
食事も風呂も終え、後は寝るだけという所で彼女の我が儘に付き合わされた意味はまるで無く、何より晩秋、吐く息が白い。
けれど彼女に逆らうという選択肢も元より無く、全ては僕達を夫婦と勘違いしたホテルのフロント係が悪い。
十年も付き合うとそういう雰囲気が出来るのだろうか、勘違いされたのは初めてでは無いけれど、タイミングが悪過ぎた。
ここ最近同級生の結婚式が増えてきて、その度に僕等は二人で出席。
周りからは、いつ、としか聞かれない。
 先を考えれば形を求める事は自然だと思うし、彼女の気持ちも解ってはいる。
それこそ大学を卒業する時から、或いはもっと前に成人した時から、冗談交じりだったけれど、
きっとその中にも本気な部分があって、彼女は僕との結婚を考えてくれていたのだろう。
僕だって今更他の女性は考えられないけれど、もう少しだけこのままで居たいのも本当だ。
「ねえ、戻らない?」
 大声で彼女に言う。もう波打ち際まで行って、遊んでいた。
「もう少し居たいから、先に帰っても良いよ」
 振り返りもしないで、露骨ではないけれど拗ねている。
遊ぶ彼女の少し後ろで、僕はボンヤリ立ち尽くす。何となく見た月は、
彼女の向こうに、海の上に、ホテルから見た時は綺麗な満月だったはずなのに、雲が掛かって弧が僅かに覗くだけ。
気付けば彼女の影はどこか薄く、振り返れば、僕の影も同じように。

68 :No.16 月下美人の幻に 2/5 ◇twn/e0lews:07/10/08 00:17:01 ID:GHgD87hW
「風邪引くよ?」
 口にした途端に何故だか、高校二年の冬休みに、初めて二人で行った旅行が思い浮かんだ。
彼女は風邪を引いていたのに行くと言い張って、長野の那須高原にスキー旅行。
「大丈夫、私馬鹿だから」
 夏休みにバイトして貯めたお金だった。
春から付き合い始めて半年、まだキスも済ませていない状態でいきなりの遠出、僕も彼女も前に進むつもりだったのに、結果は無理がたたってホテルに缶詰め。
鼻水をダラダラ垂らしながら彼女は泣いて、僕にあたって、喧嘩をして、最悪だった。
思い出すと、笑えてしまう。
「何よ」
 なおも振り返らず、波を蹴飛ばしながら彼女が言った。
大声で笑ったつもりも無いのに気付かれてしまうのは、喜ぶべきか悲しむべきか。
「旅行、思い出したんだ。那須の」
 吐く息は白いけれど、もう暫くここに居ても良い気がして、腰を下ろす。触れたのは乾いた冷砂。
掌を開いて掬うと、指の隙間から零れ落ちて、どこか懐かしく、小さな粒の一つ一つが気持ち良い。
「貴方が無理矢理連れ出した?」
 掬って、零れて。掬って、零れて。
「僕は、止めようって、バスに乗る前に言った」
 右手で掬って、零れを左手で受け止めて、空になった右手でまた受けて。
「残念そうな顔してたから、頑張ってあげたの」
 やがて掌の砂は、どこかへ消えてしまって、もう一度掬う。
彼女は時折声を上げながら、苛立ちを発散するかの様に暴れて、あれでは飛沫で濡れてしまっているだろう。
「大学の時にさ」
「え?」
「貴方だって風邪引いて。三回の時、就活の最中で、休まなかったら倒れて、入院した」
「ああ、そう言えば。あったね」

69 :No.16 月下美人の幻に 3/5 ◇twn/e0lews:07/10/08 00:17:36 ID:GHgD87hW
 思い返すと遙か遠い過去の事のようで、何故だか悲しかった。
今になって、結婚しようなんて冗談は言えなくなって、僕も一人でジュエリーショップを冷やかした事は、両手で数え切れない程にある。
いつ捨てられるかと考えて眠れなくなった事も、一度や二度じゃない。
ぼんやりと、思いを浮かべながら彼女を眺めていたら突然、その動きが止まって、雲向こうの月を見上げているらしい。
 水を蹴る音が消えただけで、潮騒の静寂、どこか別の世界かと思う程に違った。
「何年前だっけ」
 彼女の漏らした言葉が何か覚悟を決めている様で、怖かった。
「那須と入院、どっち?」
 話を逸らしたくて、僕はとぼけた。後ろ姿だけれど、彼女が呆れたのが解った。
「まあ、いいや」
 唐突に彼女が振り返って、慌てて目を逸らす。
全てを見透かした様な彼女の視線を肌に感じて、小さな頃に母親に叱られた気持ちに似た、怖い様な、寂しい様な、解って欲しい焦燥感に覆われる。
ねえ、と声を掛けられて、仕方なく、ゆっくりと顔を上げた。
「結論出そう」
 ふと見ると、どこまでも広がる終わりの見えない海、その波に足を浸けた彼女の表情は遷ろう事も無く。
自然体で佇むその姿はパズル・ピースの様に溶け込んで、十年の関係で知り尽くしたと思っていたのに、
その実何も知らなかったのだと、驚きに近く、吸い込まれる様に、見惚れた。
「もう、今のままは続けられないよ」
 風が吹いて、けれど寒さはどこか解らない。他へ向ける全ての感覚が消えて、僕は固まる。
寄せては返す潮騒が思考を白く塗り潰し、風音は景色を鮮やかに際立たせる。
隔絶された、ここは彼女の海岸なのだと思った。
瞬間。光が一筋の線となって降りてくるのが見えて、月を覆っていた雲が消えた事を知る。
 落ちてくるのではないかという程に、大きく、近く、現れた満月は、遙か彼方の波鱗にまで反射して、浜の砂は呼応して輝く。
浜や海の一部分から、連鎖の様に広がっていくその光景はカンバスを筆で塗り替える行為に似ている。
やがて、海岸の発光に反響して空気までもが色を持ち、予め決められた道を辿るかの様に、波打ち際の一点へと集う。
月光の蒼白色が浮き出した彼女は、眩しさとは違う、仄かな膜に包まれて見えた。

70 :No.16 月下美人の幻に 4/5 ◇twn/e0lews:07/10/08 00:18:08 ID:GHgD87hW
「貴方が決めれば、それで良いから」
 彼女は穏やかにそう言って、ふと、何かやりきった様に微笑んだ。
光に染まった頬は透き通りそうで、余りにも風景に溶け込みすぎている笑顔が、儚い。
僕はもう、見ているのが辛くて、気が付けば立ち上がっていた。
 輝く砂を踏みしめて、波に濡れる靴も構わずに近寄って、彼女は僕の背に手を回し、胸に顔を埋める。
抱き返すと、彼女は目の前に居るのにどこか遠く感じて、何と言おうか、どうしようか、戸惑う。
 暫く、そうして抱きしめていたら、下から覗く彼女と目が合った。
「どうするの?」
今までは逃げられたけれど、今回は違うのだから、ふと考えるまでもなく答えは決まっていて。
結局彼女が好きなのだから、求められれば、そうする以外にすべは無い。
「君が居ないより辛い事なんて、無いから」
 仕方ないと思いながらも、けれど追いつめられて漏れた言葉は正直で――途端、ニヤリと彼女が笑った。
 一体何なのだと動転する僕をあざ笑う様に、彼女は口を開く。
「じゃ、帰ろっか……っていうか靴、脱いでから来れば良かったのに」
 寒いから早く風呂に入ろう、なんて彼女は続けて、今までの神妙さは何だったのか、言われた僕が腰砕け。
要は一杯食わされたのだと気が付くと、何だか突然足下が冷たく感じて、そう言えば必死になっていたから、僕も海に入っていた。
「マジ?」
 ボヤキながら、溜息を吐いて、一気に力が抜けてしまってへたり込む。
当然足下は海水だから、ズボンも何もかもグショグショになったけれど、そんなのもうどうでも良い気がした。
「ちょっと、馬鹿!」
 何をしていると、驚いた風に僕を見ている彼女が何だか怨めしくて、フザケンナ、その手を掴んで引きずり込む。
ばしゃん。二人でしょっぱい、海水の味。
「ふざけないでよ!」
 ぺっぺ、しょっぱい唾を吐きながら、彼女が僕を叩く。
「君が悪い」

71 :No.16 月下美人の幻に 5/5 ◇twn/e0lews:07/10/08 00:18:35 ID:GHgD87hW
 そう言いながら、僕も何だか楽しくなって、笑えてしまう。
ふうと一息吐きながら空を見上げると、大きな満月が何事も無かったかの様に、ああ騙された。
「騙された貴方が悪いの」
 悪びれる様子もまるで無く、そんな風に笑われたら、もう素直に認めるより無い。
「結婚、するのよね?」
 溜息交じりに頷いて、喜ぶ彼女を横目でチラリ、見上げた月まで笑ってそうで、悔しいんだか情けないのか。
けれどそれでもどことなく、落ち着く自分がそこにいて、案外こうして踏ん切れたのは、良い事だったのかも知れない。
喜び、喜び、喜びながら、水で遊ぶ彼女の顎を、右手でクイッと引き寄せて。
月下美人の幻に、敗北宣言代わりのキスを。



          了



BACK−敗者たちの時代◆f/06tiJjM6  |  INDEXへ  |  NEXT−まっすぐ◆Op1e.m5muw