【 ガラテア 】
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2 名前:No.1 ガラテア(1/5) ◇pt5fOvhgnM[] 投稿日:07/02/10(土) 09:57:38 ID:LGqrIi6M
 イトスは酷く醜い男で、誰からも愛されなかった。
 けれど、彼は幸福だった。
 彼は主が歌うのを離れて見守っていた。
 幼い頃に全身に酷い火傷を負い二十を過ぎた今でもミイラ男のように包帯を巻いていて、いつも軟膏の臭いをさせている、その臭いを――そして無論、彼の容姿自体を――主は嫌うのだ。
 だから、彼は主を遠くから眺めていた。
 主――ガラテアという少女は部屋の中央に立ち歌っている。微かな身じろぎに長い金髪が誘うように揺れる、大理石のように白い肌に紅玉のような瞳。
 今はまだ幼いが、やがて大輪の花を咲かせるだろうと誰の目にも分かる程の美貌の持ち主で、声もまた同じくらいに美しかった。
 鈴を転がすような、という喩えがこれ程に似合う声も無かっただろう。
 イトスは、ガラテアの歌をこよなく愛していた。
 イトスが歌に聞き惚れていると、彼の同僚がすぐ横に立って、脇腹を肘で小突いた。
「おいおい、そんなにお嬢さんを睨むなよ、ただでさえ目を付けられてるんだから」
 睨んでいるつもりは彼にはなかったが、自身の眼差しがそうとしか見えない事を自覚してもいた。
「アレス、俺はそんなつもりは……いや、ああ、気をつける」
 彼は目を逸らし、再び歌声へと耳をかたむけた。
 しかし、そんな事はおかまいなしにアレスは語りかける。
「しかしまぁ、お嬢さんはいつまで歌うつもりなのかね、立ちっぱなしってのも辛いんだが」
「そうか? 俺は平気だ。お嬢様の歌は綺麗じゃないか」
 小さく肩をすくめ、アレスは悪戯っぽい視線をイトスに向けた。
「まぁ、悪くは無いな。でもお前みたいに入れ込む程じゃない……まさか道ならぬ恋って奴か? やめとけよ、今時流行らないぜ」
 彼は小さく笑いながら言った。どこか人懐っこいものを感じさせる。実に感じの良い笑みだった。イトスには千年かけようとも手に入らない類の笑みだった。
「冗談だな。自分の醜さは自分が一番知っているよ。俺はお嬢様の歌が聴けるだけで幸せだ。多くを求める者は結局何一つ手に入らない」
「こうも言えるぞ、少ししか求めない者は永遠にそれ以上の者を手にする事は出来ない」
「俺は自分のマイナスを埋めるので手一杯だよ、そういうのはお前に任せる」
「ははっ、もし俺が大金持ちになったら半分分けてやるよ」
 その時、鋭い叱咤の声がした。
「アレス、イトス、お黙りなさい!」
 二人は教師にしかられた悪童のように背筋をただす。
 彼等の小声での談笑はガラテアの耳に届いていた、まなじりを釣り上げ唇を尖らせ、不満そうな顔で二人を睨んでいる。
「興が削がれましたわ、自室に戻ります」
 冷たく言い捨てて、彼女は部屋から出て行った。

3 名前:No.1 ガラテア(2/5) ◇pt5fOvhgnM[] 投稿日:07/02/10(土) 09:58:09 ID:LGqrIi6M
残された二人。アレスは呆れたように溜息を漏らした。
「おいて行かれちまったよ。俺達って一応ボディーガードじゃなかったか?」
 苦笑いを混じりにイトスは言う。
「いつもの事だろう。これからどうする?」
「俺は今日入った新入りのメイドを見に行くよ、可愛いらしいぜ、お前もどうだ?」
 首を振り拒否する。
「気持ち悪がられるのがオチだ。俺は見回りをやっておくよ」
 そうかい、とアレスは言い、軽く手を振って去っていった。
「さて、と」イトスは伸びをして自身も退室しようとした。
 ふと、目の端に光るものが写った。ガラテアの立っていた辺りだ。怪訝に思い、彼は近づいた。
 それは小さなイヤリングだった。彼は拾い上げ、周囲を改めて見回した。当たり前だが、彼しかいない。彼が届けるしかなかった。
 イトスは急ぎ足でガラテアを追い駆けた。
 部屋に入る手前で追いつき、イトスは呼びかける。
「お嬢様、これが」台詞と同時にイヤリングを差し出した。
 ガラテアはイトスの掌にあるものが自分のイヤリングであると気付いた瞬間に顔をしかめた。
 汚いものでも見るような眼差しで、イヤリングを睨みつけ、すぐに顔を上げた。
「貴方が触れたものなんていらない。あげるわ、好きになさい」
 冷たく言い放ち、踵を返す。
 消えていくガラテアの背に、イトスは語る。
「お嬢様、今日の歌も大変お綺麗でした」
「……貴方はいつもそれね」ガラテアは振り返りもしなかった。
 取り残されたイトスは彼の手の中でイヤリングが冷たく光っていた。

 夜、イトスはそっと中庭へと向かう。中庭からはガラテアの部屋が見える。ガラスの内側は未だ明るく退屈そうに、ベッドに腰掛けているガラテアが見えた。
 イトスは真っ暗な闇に隠れながら、息を潜めてガラス越しの光景を見つめている。
 やがて、彼女は立ち上がり、誰かを迎え入れた。
 アレスだった。
 二人はベッドに腰掛け楽しげに談笑している。時折、ガラテアが口元を押さえて笑う姿がイトスの目に入った。
「良かった」彼は呟いた「お嬢様が笑っている」
 胸をなでおろし、満足気に、だけどどうしようもなく歪に微笑んで、そっと姿を消した。

4 名前:No.1 ガラテア(3/5) ◇pt5fOvhgnM[] 投稿日:07/02/10(土) 09:58:40 ID:LGqrIi6M
 翌日、ガラテアは再び歌おうとして、ふと首を傾げ、部屋の隅で壁にもたれかかっていたアレスを呼んだ。
「イトスの姿が見えないわね」イトスは長年勤めていたが、ガラテアが歌うというのに傍にいないのは初めての事だった。
「ああ」と、呟いて窓の外を顎で指す「あいつなら、一週間後のお嬢さんのバースデーパーティーの打ち合わせです、いつもは時間をずらすんですがね、旦那様の都合らしいですよ。」
「イトスはそんな事もやっていたのね」
「ま、あいつは見てくれ悪いですがやたらと優秀ですからね、忠誠心にもあつい、だから雇われてるんですよ」
「知らなかったわ」
「でしょうね」
「……それにしてもパーティなんてすっかり忘れていたわ、憂鬱だわ」
 面倒くさそうに彼女は溜息をついた。
「良いじゃないですか、お嬢さんが主役なんだ、大勢の前で気持ちよく歌っても怒られやしませんよ」
「大勢の前で気持ちよく、ね、誰も聞いてなんか無いわ、ご機嫌取りに必死で」
 言うと、彼女は目を閉じて、息を整えた。
 彼女は大きく息を吸い、最初の一言を歌いだそうとして――止まる。
「アレス、窓を開けて、全部」
 不思議そうに首をかしげながらも彼は従った。
 改めて、彼女は歌いだした、常より、少し大きな声で。

 ガラテアの父――当主と警備の打ち合わせをしていたイトスは顔を上げ、窓の外を見た。
「どうした、イトス」
「いえ……歌が」
「歌?」言われ、当主は目を閉じ耳を澄ます「ああ、微かに聞こえるな……全く、困ったものだ」
「綺麗な歌声ではありませんか」
「いつまでも子供で困る、と言っているんだ。全く、いつまでも歌なんかに夢中で」
 渋面を浮かべて当主は言う。
「良いではありませんか、歌っているお嬢様は特にお美しい」呟いて、イトスは何事もなかったかのように警備の話を進めた。
 歌の話題は打ち合わせが終わるまで出なかった、終わってからも出なかった。
 その程度のものだった。

5 名前:No.1 ガラテア(4/5) ◇pt5fOvhgnM[] 投稿日:07/02/10(土) 09:58:56 ID:LGqrIi6M
 それからの一週間は準備で瞬く間に過ぎていった。
 パーティーの当日、屋敷は無数の人でごった返していた。最初に、ガラテアが一曲歌った。無数の拍手、賛辞の声、作り笑い、彼女は胸中でそっと溜息を吐いた。
 彼女が愛想を振りまいていると、イトスと目が合った。
 綺麗な歌でした、と、イトスは唇の動きだけで伝えた。
 ありがとう、彼女は無意識のうちにそう返していた。
 そして、パーティーの終盤、事件は起きた。
 招待客の一人が、銃を抜いたのだ。狙いは当主に向けられている。
 ガラテアはその時、父親のすぐ傍に、射線上にいた。
 何かに疲れたような腐った水のような色をした男の眼差しにガラテアは恐怖した、銃口よりも、はるかに恐ろしかった。
 彼女は絶叫した。
「助けて! 助けてハイン!」
 引き金が引かれる。ハインが飛び出す。
――飛び出したハインを、思い切り押しのける姿――
「お嬢様を頼む」口元を歪めた微笑をハインに向け、刹那の躊躇いも無く彼は銃弾に身を晒した。
「イトス!」
 イトスの呟き、ハインの叫び、銃弾が貫く、噴水のように血が舞い上がる、地面に落ちる大きな音、逃げようとする男、追う男、パニックを起こした客達。
 パーティーは今や出来損ないのカーニバルのようだ。
 この混乱では救助は期待できない、自分は助からない、と彼の心の冷静な部分が告げていた。
 それ故に、彼は探していた、ガラテアを探していた、霧に覆われたような視界の中で必死に探していた、けれど、見つからない。
「お嬢様、歌ってください、お願いです、最期に歌ってください、歌ってください、歌って――」
 壊れたテープレコーダーの様に、彼は呟き続ける。血は流れ、体温は失われ、命は消えていく中で哀願し続ける。
 その声は、彼の願いは、ガラテアに届いていた、彼女の鋭すぎる耳には届いてた。
 だけど、彼女は歌えなかった、目の前にある死が恐ろしくて、醜くて、震えていた、小鳥のようにか弱く震えていた。
 彼女とて歌おうとはしていた、勇気を振り絞ったつもりだった、けれども声が出なくて、ただ、震えた空気だけが唇から零れ落ちていった。
「お嬢様、お嬢様、お願いです、お願いです、綺麗な歌を、綺麗な歌、綺麗な、綺麗な、綺麗、な、綺、麗、な、あ、あ――」
――さび、し、い、なぁ――
 彼は虫けらのように死んだ。
 誰にも看取られずに死んだ。

6 名前:No.1 ガラテア(5/5) ◇pt5fOvhgnM[] 投稿日:07/02/10(土) 09:59:16 ID:LGqrIi6M
 共同墓地は小さな丘の上にあった。狭い墓地で、粗末な墓ばかりがある。
 先日、そこに一つ墓が増えた。やはり、粗末な墓だった。
 似つかわしくない美貌の少女がそこに立っていた。
「副葬品がイヤリング一つなんて惨めなものだわ、本当に最期まで惨めだったわね、貴方、一体何の為に生まれてきたの?」
 当然のように、答えは無い。彼女はただ悲しげに粗末な墓を見下ろしていた。
「ここにいたのかいお嬢さん、あんな事があったばかりなんだ少しは自重して下さいよ、旦那様もお怒りだ」
「屋敷にいると気が滅入るのよ、聴いてくれる人もいないのに歌うのがこんなに惨めな事だとは思わなかったわ」
「俺が聞いてあげますよ」
「私の歌は好き?」
「好きですよ……それなりに」
 それだけ言って、彼は居た堪れなさ気に目線を落とした。
「彼だけは綺麗だと言ってくれた、毎日、毎日、何の意味も込めず、ただ綺麗だ、と
 愛されていたのね、私の歌は、私以外の誰かに――なのに、私は、踏みつけて
 私の歌を一番愛してくれた人が今にも消えてしまいそうなのに、最期なのに歌ってあげられなかった。
 そして、私は――彼ではなく、彼を失った私自身を哀れんでいる」
 ガラテアは空を見上げる。
「私は、なんて醜いのかしら」
 彼女の両目には今にも零れてしまいそうな程の涙が溜まっていた。
 重苦しい沈黙が墓地を覆ってい、やがて、一滴の涙がガラテアの頬を伝い、墓標に落ちた。
「一曲だけ歌って帰ります、先に帰ってなさい……泣き顔を見られたくないの」
「分かったよ……ええと、最後に一つ言わせてくれ、俺は正直あんたが好きじゃなかった。高慢で世間知らずな小娘だと思ってた。けど、今のあんたは、その、綺麗だと思う。だから、そんなに自虐的になるな」
 彼は少し迷って続けた。
「イトスが何であんたを綺麗だって言ってたのか、今なら分からなくも無い」そして彼は去っていった。
 遠ざかる足音が消えた頃、ガラテアは両手を広げ、息を大きく吸い込んだ。
 その時、丁度風が吹いて、彼女の涙を散らした。
 散っていく涙は陽の光を写し輝いている。
 涙と共に、彼女は歌い始めた。
 丘の上で、鎮魂歌が響いている。
 ただ、綺麗に響いている。



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